戦国IXA・後藤基次(槍の又兵衛)

戦国IXAイラストコンテスト用に描いた。後藤基次です。
戦国ものが好きな人には「槍の又兵衛」という名前でも
知っている人が多いかもしれませんね。
黒田長政の家臣として頭角をあらわし、朝鮮出兵では、
黒田一成、母里友信とともに先鋒をつとめ、九州征伐や関ヶ原
でも功績をあげて、黒田長政をして「自分の右腕」とまで言わ
せた猛将です。

大阪の陣までに戦いで刻んだ傷の数53箇所
まさに「百戦錬磨」である事間違いの無い武将です。
豪放磊落で自信家でもあったとされ、それが後の黒田長政との
長い確執に繋がったのではないかと言われています。
しかし、ただの荒くれ者ではなく、とても義理堅く部下にも
慕われていたようです。

又兵衛が黒田家を出奔したのが確執の始まりだということですが、
その理由が、老母が「大阪に住みたい」と願ったためともされ、
黒田長政に願うも却下されて強行したのが原因のようです。
さらに大阪城入場も、黒田家の刺客に捕われた彼の息子を、豊臣
秀頼が助け、刺客を罰して磔にしてくれた恩からだとされています。
出奔し浪人になってからは、細川忠興、福島政則、松平秀康、前田利長、
藤堂高虎など、錚々たる面々からラブコールをおくられます。
後藤基次の実力を、それだけ多くの武将が評価していたと言う事
でしょう。

黒田長政は、後藤基次を裏切り者として執拗に追い続け、他で
仕官されそうになると政治力と権謀術数を駆使して邪魔する等、
もう君主と家臣を超えた感情で長政も動いてたんじゃなかろうか
と思えてきます。またそれだけ「槍の又兵衛が怖かった」のかも
しれません。

大阪城入城後は浪人衆の旗頭として働き、戦いの前の天満での閲覧式
を指揮、自軍を徳川方と豊臣方に分けて見事に号令の元指揮したことから
「又兵衛の軍術、魔利支天の再来」と見物した武将に言わせた程です。
黒田長政が執拗に追い続けるはずだw

大阪冬の陣では6千人を指揮(後に増員)、佐竹軍を追い詰める活躍をし、
夏の陣では、木村重成とともに先頭を進みます。
ほとんど初陣に近い、眉目秀麗な天才若武者の木村重成と、百戦錬磨で
傷だらけの猛将、後藤基次の組み合わせは対照的で面白いですね。
ただ、経験のある叉兵衛と、経験の少ない木村重成を合わせたのは、
計算のもとであったのかもしれません。

夏の陣では、又兵衛の「大和口での迎撃策」をもとに進軍するものの、
徳川方の進軍が想像以上に早く、道明寺で後藤軍は孤立、最終的には10倍
にも膨れ上がった敵を相手に孤軍奮闘。7〜8時間もの間粘ったものの壊滅、
槍の又兵衛はその場で自刃して果てます。
それを知った味方は撤退を諦めて敵軍に突撃をかけて戦死するものが続出
したことから、配下の兵士から慕われていた事が分かります。
後にこの戦いは「道明寺の戦い」といわれ、真田信繁(幸村)の戦いと
ともに、細川忠興に「古今これなき大手柄」と称えられ、古巣の福岡藩
では、後藤基次……槍の又兵衛の人気は続いたとされています。

家臣として、後に宿敵となった黒田長政をして「2〜3千の兵士なら、又兵衛
なら手足のように使う」と言っていたそうで、その実力は真田信繁、毛利勝長
とならび、豊臣方随一であったといっていいでしょうね。



2012年2月19日