◆ ウィリアム・スミス・クラーク ◆

  植物学者、教育家。アメリカマサチューセッツの生まれ。
 アマースト大学で鉱物学を学んだあと、ドイツのゲッティンゲン大学に
 留学して鉱物学と植物学を学ぶ。1852年に帰国してアマースト大学教授となる。
 またマサチューセッツ州議員としてマサチューセッツ農科大学の設立に力を尽
 くし、同大学の学長となる(1867〜79年)。
 日本に来ることになった時も学長を務めていたので、長期にわたって大学を離
 れることはできず、1年間だけ、という契約で日本へと赴任する。
 1876年6月29日に横浜へ上陸、7月31日に札幌へ到着した。
 クラークとともに、ホイーラーとペンハローもお雇い外国人教師として札幌農
 学校に着任したが、彼らはともにクラークの教え子。20歳代という若さで
 日本に赴任してくる。後、ホイーラーは、クラークの後を継いで札幌農学校第2代目
 の教頭になり、ペンハローは第3代目の教頭になる。
 クラークが札幌を離れ帰国の途についたのは、1877年4月16日。
 札幌農学校の教師と生徒の一同は札幌近郊の島松宿(現在の広島町島松)まで馬に
 乗ってクラークを見送りに行く。そこでの別れの最後に、
 "Boys, be ambitious like this old man"
 とクラークが言ったと言い伝えられている。
 マサチューセッツ農科大学の学長を辞した後のクラークは、洋上大学の計画に
 力を注いだが成功せず、その失敗を鉱山事業によって挽回しようとしたが、
 これもうまくいかず、失意のうちに世を去る。
 北海道において地衣類の新種「クラークごけ」を発見したほか、植物生理学に
 関する実験的研究で業績を残している。

 さて、"Boys, be ambitious like this old man" だが、これは、
 「少年たちよ頑張れよ、こんなおじさんも頑張っているんだからね」といった軽い
 意味合いで使われたもので、本来は名言というものではなかった。
 それが、現在のような名言になってしまったのは、当時の国家主義・軍国主義教育
 を押し進めようとする教育者たちが、「金や名声を得るために生きるのではなく、
 国家レベルの大きな理想を持つべきだ」と言う教えを定着させる為に、クラークの
 言葉を利用したのだと言われている。