17. 「クソ、コイツはいかれています。進路変更の呼びかけを行っているんですが、わけのわからないロシア語を喚いています。」 体験搭乗のプランを担当していた由子は、千歳管制塔の混乱の最中にいた。 「ロシア語、わからんないんですか?」 「病気…だめです。国際規定によるやりとりでは、無いようです。興奮して酷く聞き取りづらくて…。」 管制官はロシア語を話せるが、国際法で定められた航空運航上のやりとり以外にロシアを用いたことは無いのだ。由子の頭に、一 人だけロシア語の日常会話が出来そうな人物が浮かんだ。躊躇している時間は無い。壁にぶら下がっていた電話を手に取ると、病院 の番号を急いで入力する。 「はい、こちらは北海病院です。いかがなされました。」 眠たげな声が応じる。「くそ、レーダー照射を受けている。」くぐもった鷲頭の悲鳴が管制室に響いた。騒然としていた室内が静 寂に包まれた。誰もが信じられない事態に硬直していた。 「日本政府の者ですが、至急、春野和也を呼び出して。」 由子は叫んでいた。外では滑走路を空けるべく、ブルーインパルスのT-4が、慌しく離陸していく。この混乱では、三沢のスクラン ブルの方がまだ早い。管制塔内の誰もがそう思っていた。 18. 「クソ、見舞いに行きたいだけなんだ。どいてくれ。」 ヴィクトルは、痺れを切らしつつあった。空気密度の高い低空を飛び続け、燃料は刻々と減ってきている。 「公海上に引き返しなさい。繰り返す…」 目の前をふらふらと飛ぶ日本軍機は、進路をさえぎりつつ、紋切り型の応答を返してくるだけだ。どこに引き返せるというのだ。 燃料の続く範囲でこのクラスの機が着陸できるのは、もう北海道本島にしかない。ヴィクトルは、近接戦モードを選択した。ヘルメ ットサイト内で、予想着弾線が日本軍機へと延びていく。連中が受け入れてくれないなら、押し通るまで…安全装置を解除し、操縦 桿の引き金に指を掛けた。以前見たアメリカ映画を思い出し、最後の警告をする。 「レディー・ガン…」 動揺する日本軍機の前方に向けて、オレンジ色の火線が延びた。 19. 鷲頭は、操縦桿を一気に引いた。既に後席に構っている余裕は無い。 「こちらDEKO、撃たれた。進路妨害はもう無理だ。スクランブル機はまだ来ないのか。」 上昇左旋回、直進するフランカーの後ろ上方に機を誘導する。フランカーに動きは無い。こいつは何処に行こうというのだろう か。一心不乱に本島上空を目指すフランカーに、鷲頭の怒りは醒めていった。ベレンコ事件(注1)のことが頭を過ぎる。Mig-25の 函館強行着陸、しかし今戦闘機で亡命するほど、ロシアが警察国家だとは思えなかった。 「こちらホーク2、三沢から2機上がった。あと、10分、いや7分で接触する。」 しかし、目の前のフランカーは、既に本島上空に差し掛かりつつあるのだ。 「こちら千歳管制塔、本島上空への侵入を許すな。警告射撃を許可する。繰り返す、警告射撃を許可する。」 目の前をいくフランカーが武装を吊っていないのは、明らかだった。しかし、機体の中心に吊られているタンクが、見た目どうり の燃料タンクである保障は何処にも無かった。僅かな曳光弾、そしてこのイーグルそのものだけが、フランカーを止める手段だっ た。 「琴梨さん、脱出手段については教わっていますか。」 数時間ぶりに琴梨に話しかけたように思えたが、まだ空はオレンジ色の光を残していた。 「ひぅ…あの、ごめんなさい。よくわかりません…」 琴梨の嗚咽を聞き、鷲頭は天を仰いだ。何も知らない女の子をロケットで空に吹き飛ばすことと、一見無害にも見える戦闘機を国 内に入れること。どちらが正しい選択だというのだ。目の前には小樽港の光が瞬き始めていた。 (注1)ベレンコ事件:ソ連のMig-25が、日本の防空レーダー網を掻い潜り函館空港に強行着陸した事件。パイロットのベレンコ中 尉は、アメリカに亡命。自信をもっていた防空レーダー網がすり抜けられ、一度接触したF-4(302所属)がMigを見失うといったこ とが重なり、航空自衛隊の威信は失墜した。 20. 「無線中継、なんとかなるな…あ、もう準備は始めてる。それじゃあ…」 春野はターニャの病室で、由子の電話を受けていた。居合わせた薫に聞いてみると、離島からの患者受け入れに使う航空無線があ ることが解かった。ターニャを向き直ると、少し眠そうな顔で微笑みを返してくれた。 「ロシアからのお客さんだ。僕のロシア語、上手く通じるかな?」 「はい、先生がいいですから大丈夫です。自信を持ってくらさい…」 ロシアと日本、それを理解することは、春野とターニャがお互いを理解することと同じ意味を持っていた。二つの国の狭間を埋め ること、それは春野がパイロットになった理由でもあった。 「もう、眠くなってしまいました。いい夢を見てきますから、あなたは私たちの仕事をしてきてください…」 春野は、金色の髪を優しくずらすと、おでこにやさしく口付けした。 「行ってきます。先生…」 「はい…」 ターニャは安らかな笑みを浮かべながら、目を閉じた。春野は音を立てずに病室を出ると無線室に走った。僅かなキーワードは病 気、不可解な話だが、友人二人が危険の真っ只中にいるのは確かな事実だった。そして、自分がそこにいるべきだったことも。 21. 限界だった。鷲頭の乗るイーグルに積まれた曳光弾は、極わずかしかない。フランカーに僅かでもダメージを与えるには、近づい て全弾命中するしかない。第一今更警告射撃などで言うことを聞く相手では無さそうだ。 「こちら航空自衛隊、速やかにコースを変えろ。さもなくば撃墜する。これは…」 「ちょっと待ってくれ、俺が通信を試してみます。」 唐突に、国際緊急チャンネルから春野の声が流れ出た。「お兄ちゃん…?」後席でも驚いた琴梨が声を上げる。 これなら、何かが通じるかもしれない。鷲頭は祈りながらも、指は引き金に掛けたままだった。既に鷲頭たちは小樽の上空に入っ ていた。赤い夕焼けが、最後の光を放っていた。 22. 後方レーダー警戒装置が、日本軍機のロックオンを告げていた。しかし、最早取るべき道は無い。ヴィクトルは操縦桿を腹へと一 気に引き付けた。空が廻る。鼻先を黄色い光の線が掠めていく。ヴィクトルは歯軋りした。撃ちやがった。敵も本気だ。 「琴梨さん、口を閉じて!」 クソ、外した!鷲頭は、スロットルを一気に叩き込んだ。イーグルは、爆発的に加速する。旋回で追いすがるのは、後席の琴梨を 思えば不可能だった。加速して振り切るしかない。首を廻らし、後上方の絶好の射撃ポジションを取ろうとする敵を睨みつけた。 「アクトロイ・スワヨー・セルツェ…」 鷲頭は、目を見開き敵を追い続ける。自分のベストを尽くす。相棒はそれに応える。それが、ファイターパイロットの慣わしだっ た。 「心を開いて…」 唐突なロシア語とともに、日本軍機のキャノピーが赤く燃え立つように輝いた。人差し指から力が抜けていく。ヴィクトルは、ロ シア語に耳を傾けた。 「私の名前は、春野 和也…あなたのお名前は、何をしているのですか?」 たどたどしいが、確かにロシア語だった。その響きが、高ぶっていた神経を解していく。 「私はヴィクトル・クルジン。病気の友人を見舞いに来た。道を開けて欲しい。」 「そのお友達は、何処にいますか。後ろの飛行機に、道を教えて貰うことが出来ます。」 春野の額からは、汗がふきだしていた。相手は、応えてくれた。第一段階はクリアーだ。 「こちらヴィクトル。友人は北海病院にいる。サホロの病院だ。私は千歳に着陸したい。」 北海病院?うん?北海大病院の事か…しかし、千歳とはまた無茶な要求をつきつけられたものだ。 「すみませんが、準備が必要です。あ、鷲頭さん、奴さんはお見舞いで千歳に向かってるそうです。」 前半はロシア語、後半は日本語だ。 「こちら鷲頭。もう、小樽を通過した。もう道内に降りるしかない。今更どこに下りてもかわらんが…」 「駄目だ。燃料がもう無い。あと、ターニャの手術も今夜と聞いている。」 ロシア語と日本語の返答が一度に帰ってくる。しかし、春野がターニャという言葉を聞き逃す筈が無かった。 「ヴィクトル、ターニャと言いましたか。その友達はターニャというのですか?」 集中して言葉を引き出しながらも、春野はまさかと思いながら質問した。 「ターニャ・リピンスカヤ、私の従妹だ…」 春野は、マイクを握り締めた。 「鷲頭先輩、後ろの飛行機を千歳に連れて行ってやってください。そいつは安全です。僕が保障します。千歳管制室、F-15と亡命 希望のフランカーの着陸を許可願います。フランカーのパイロットは、体調の異常を訴えています。直ぐ北海大病院に回してくださ い。」 「了解…」「馬鹿な。本気か?」後段は管制室からだった。 「馬鹿ではありません。燃料は後わずか、千歳に降りなければ、本島上空で墜落します。」 日本語でまくし立てると春野は、息を整えた。 「ターニャは元気です。心配いりません。手術には間に合いませんが、元気になった彼女に一番に会えるはずです。」 春野はロシア語の響きを優しく感じていた。 23. 白とも黄色ともいえる柔らかな光が病室に差し込んでいた。ア、ア、ア…というカラスたちの合唱に、ターニャは目を覚ました。 ん…、上半身を起こし、目を擦る。すがすがしい光の元に目を向けると、窓枠の下でパイプ椅子に座った春野が眠っていた。入院の 退屈を紛らわすために見た時代劇の運河を思い出す。なるほど、これが「舟を漕ぐ」ですね。首を傾けては戻す姿をターニャは見つ めた。 ガクリ、強烈な角度で春野の首が曲がった。慌てて首をさすりつつ、ぼうっとした頭を持ち上げる。しまらない顔にターニャは微 笑みかけた。 「おはようございます、和也さん。気持ちのいい朝ですね。」 春野は朝日を受けたターニャの顔を見て、胸から頭へと突き抜ける痺れる様な喜びを感じていた。薫から手術の成功は聞いていた が、目覚めたターニャの顔は輝いて見えるほど元気そうに見えた。 「おはようターニャ。気分はどう?」 春野は答えに確信はあったが、聞かずにはいられなかった。 「気分はいいです。ほんとうにすがすがしい朝です…」 ベットを仕切るカーテンがもぞもぞと動きだした。驚くターニャを見て、春野は声を立てて笑った。 「実は僕の他にも、お見舞いに駆けつけた人がいるんだ。ズラーストウイッチェ(注1)、ヴィクトル!」 待ちかねたようにガバリとカーテンが開く。隣のベットから身を乗り出すようにして、その隙間からヴィクトルが現れた。 「ズラーストウイッチェ、ターニャ!」 ターニャはしばらく完全に固まっていた。その瞳から涙が溢れ出す。 「ズラーストウイッチェ…ズラーストウイッチェ、兄さん…」 あれは自分の仕事の筈だったんだが…ヴィクトルにしがみ付くターニャを見つめ、春野は微笑んでいた。 (注1)ズラーストウイッチェ:ロシア語で「こんにちは」。ネット検索で引っ張り出しただけなので本当は「おはよう」も別にあ るのかも知れない。兄も引いてみたのだが、こちらはロシア語の綴りはわかったが、カタカナ読みはわからなかったのであきらめ た。 24. 晴れ上がった空の色は、以前より少し白の分量を増していた。秋、北海道ではほんの瞬く間に過ぎ去ってしまう季節だ。滝野すず らん丘陵公園、さわやかな風が異国の香りを含んでいた。その香りも魅力的ではあった。しかし、鷲頭の口の中には、それとは違う 幸せの香りが広がっていた。 「あ、これホントに本格的な味がします。おいしい。鷲頭さんは、本当にそっちでよかったんですか。」 鷲頭は幸せの塊を飲み込んだ。 「外で食べるおにぎりに敵うものなんて無いですよ。ほんと幸せの味です。」 少し色の褪せつつある芝生の上、鷲頭の前には琴梨の手製弁当、琴梨の前にはタージ・エクスプレス(注1)からテイクアウトした カレーが広げられていた。お互いがお礼といって交換されたご馳走だ。航空祭の事件から既に1ヶ月が過ぎ、久しぶりの再会だった。 「ふふ、喜んでいただけたらうれしいですけど、それただのおにぎりですよ。」 鷲頭は思い切り首を振った。今自分が持っているおにぎり、それを琴梨が握ってくれたと考えるだけで幸せな気分だった。 「ほんとに美味しいんですから、カレーととっかえろと言われてもいまさら返せませんよ。」 もう一口おにぎりを頬張りながら、鷲頭は1ヶ月前の事件を思い起こしていた。 国際緊急チャンネルを通したやりとりは、事件の真相を隠すことを不可能にしていた。ニュースやワイドショーはこぞって事件を 取り上げ、無線のやりとりは和訳入りで、再三放映された。ヒロインであるターニャのコメントを取ろうと押しかけたマスコミは、 毅然とした女医に阻まれることになった。マスコミ好きの首相は世紀の美談としてクルジンを絶賛し、ロシア大統領も国家資産の個 人使用を非難しつつもヴィクトルの行為を人間的として褒め称えた。問題のスホーイ戦闘機はロシア大統領から日本政府に対する友 好の証として送られ、円借款の一部が同型の戦闘機数機によって返済される合意に至った。ヴィクトルは、その戦闘機操縦の指導員 として、今も千歳基地内に暮らしている。死ぬか生きるかの狭間だったあの日の出来事は、まるで嘘のようだった。 鷲頭は隣でナンをちぎっている琴梨を見つめた。 「ところで琴梨さんは、あの日和也に何を相談するつもりだったんですか。」 琴梨は、笑いながら鷲頭を見つめ返した。 「あれは、鷲頭さんのお話を聞いて解決しちゃいました。」 「本当に?あんな話でですか?」 おかずのミートボールを口に運んでいる鷲頭を見て、琴梨は初めて料理をした日のことを思い出していた。「うん、これ美味しい ね。ありがとう、琴梨!」うれしそうに笑うお母さんの顔、それを思い出したとき琴梨の迷いは消えていた。フランス料理じゃ、お 母さんも鷲頭さんもこんな笑顔は見せてくれないに違い無かった。 少し色づき始めた木々の間では、小さな鳥たちが舞っていた。実りの季節を喜ぶ鳥たちは、輝いて見えた。 「あ、このミートボールも最高です!」 琴梨も負けずとカレーを口に運んでいた。 「やっぱりこのカレーも美味しいです!」 二人は声を立てて笑った。 (了) (注1)タージ・エクスプレス:タージマハルが運営するトラック屋台。G.M.ナイル著?「ナイルさんのカレー天国!!」(マガジン ハウス刊)を参考にした。 |