第5話  舞い散る桜の下で


「えっ・・・」

 最初は秋吉は何を言われたのかが咄嗟には理解出来ていないようで呆然としてしていた。
 しかし次の瞬間にはその表情に理解の色が浮かび、驚きへと変わる。

 そして、その言葉を発したターニャ自身も驚いていた。
 ターニャ自身はそんなことを言うつもりなんてまったくなかったのだから。
 それなのに、赤いスズランを見た瞬間から、ターニャの心の内で押さえられない衝動が沸き起こった。
 そして自分でも気がつかない内に言葉を口にしていたのだ。
 しかし、ターニャはそんな内心の動揺を胸の内へと飲み込むと、

「好きです」

 もう一度
 今度ははっきりとした自分の意志を込めて告げた。
 そして秋吉を見つめ返す。
 期待と不安が入り混じった瞳で。

 どれくらいその状態が続いただろうか。
 1分?
 それとも5分?
 それとも10秒ほど?
 ともかく、2人にとっては無限とも思えるほどの時がたった後
 秋吉は何も言わずにターニャから目をそらした。
 困惑と苦悩にも似た表情を顔に浮かべながら。

(っ!)

 そんな秋吉の表情を見た瞬間、ターニャの心の奥にズキリとした痛みが走る。
 そして急速に後悔と悲しみと罪悪感が心に広がってゆき、自分のした事が怖くなってきた。

「・・・ター」

「ごめんなさい!!」

 だからターニャは何かを言おうとした秋吉の声を大声で遮った。
 秋吉がたとえ何を言ったとしても怖くて聞けそうになかったから。

「こんなことを言ったら、秋吉さんのことを困らせるだけだって・・・分かってはいたんです。
 でも・・・でも、もう心の内だけでずっと想いを溜め続けておくのは、とても辛かったんです。
 ずっと・・・ずっと苦しかったんです。
 ・・・・・・
 でも・・・こんなのはただ私が我侭を言っているだけなんですよね。
 こんなのは秋吉さん困らせてるだけなんですよね。
 ですから・・・さっき私が言ったことはすぐに忘れてください」

 そうしてターニャは微笑もうとしたけれど表情が少し歪んだだけでうまく出来なかった。
 しかも目からは今にも涙が溢れてきそうで、秋吉を見ていることも辛くなってきている。

「さようなら!!」

「ターニャ!!」

 だからターニャは秋吉に背を向けると一気に駆け出した。
 後ろから秋吉の呼び声が耳に届いてはいたけれど、振り返ることも立ち止まることも出来ない。
 ただ、がむしゃらに走り続けることしか出来なかった。



 走り出すとすぐに瞳から涙が零れ落ちてきて視界が歪んでくる。
 でも涙をぬぐうことも出来ず、走ることを止めることも出来ない。
 途中何人か人にぶつかった気がしたがそれも分からない。
 ただ何かに突き動かされるように、何かから逃げるように足が前に出た。


取り返しのつかないことをしてしまった

私はいったい何を期待していたんだろう

どうして口に出してしまったのだろう

ずっと心の中にだけしまっておけば

ずっと黙っていれば

すくなくとも側にはいられたのに

でももうダメ

もう、秋吉さんと顔をあわせられない

はやかにも会えない

会わせる顔がない


 心の内から次々と生まれては消えてゆく様々な想いや感情をあふれさせながらターニャは走り続けた。
 しかし、もともと丈夫ではないターニャの心臓が堪えきれなくなって悲鳴を上げ始める。
 それと同時にターニャの足取りが危うくなってゆき、足がもつれ始めた。

(あっ!)

 と、思った時にはすでにターニャの身体はバランスを失っており、目の前に地面が迫ってきていた。

ドサッ

 そしてターニャの身体は道へと投げ出される。

「うう・・・」

ドクッ ドクッ ドクッ ドクッ

 身体の痛みを感じる暇もなく、心臓が嫌な音をたて、それと同時に息も苦しくなってくる。

「はぁ、は、は、はぁ、は」

 呼吸がうまく出来ず、道に横たわったまま身悶えるターニャ。
 
(薬を・・・)

 そう思ってバックを探ろうと手を伸ばす。
 しかし、それより先に脳の奥から目の方に向かって急速に闇が押し寄せるような感覚がターニャを襲う。
 そうなると、視界がだんだんと失われてゆき、ついには何も見えなくなる。
 そして
 ターニャの意識はそこで途絶えた。



 走り出すとすぐに瞳から涙が零れ落ちてきて視界が歪んでくる。
 でも涙をぬぐうことも出来ず、走ることを止めることも出来ない。
 途中何人か人にぶつかった気がしたがそれも分からない。
 ただ何かに突き動かされるように、何かから逃げるように足が前に出た。


取り返しのつかないことをしてしまった

私はいったい何を期待していたんだろう

どうして口に出してしまったのだろう

ずっと心の中にだけしまっておけば

ずっと黙っていれば

すくなくとも側にはいられたのに

でももうダメ

もう、秋吉さんと顔をあわせられない

はやかにも会えない

会わせる顔がない


 心の内から次々と生まれては消えてゆく様々な想いや感情をあふれさせながらターニャは走り続けた。
 しかし、もともと丈夫ではないターニャの心臓が堪えきれなくなって悲鳴を上げ始める。
 それと同時にターニャの足取りが危うくなってゆき、足がもつれ始めた。

(あっ!)

 と、思った時にはすでにターニャの身体はバランスを失っており、目の前に地面が迫ってきていた。

ドサッ

 そしてターニャの身体は道へと投げ出される。

「うう・・・」

ドクッ ドクッ ドクッ ドクッ

 身体の痛みを感じる暇もなく、心臓が嫌な音をたて、それと同時に息も苦しくなってくる。

「はぁ、は、は、はぁ、は」

 呼吸がうまく出来ず、道に横たわったまま身悶えるターニャ。
 
(薬を・・・)

 そう思ってバックを探ろうと手を伸ばす。
 しかし、それより先に脳の奥から目の方に向かって急速に闇が押し寄せるような感覚がターニャを襲う。
 そうなると、視界がだんだんと失われてゆき、ついには何も見えなくなる。
 そして
 ターニャの意識はそこで途絶えた。



 ターニャが目を覚ました時、まず見えたのは見知らぬ天井だった。
(ここは・・・いったい・・・?)
 どうやら自分はベットに横になっているらしい事は分かる。
 しかしそれ以外に自分の状態をまったく呑み込めないターニャは首を巡らせて辺りを見まわしてみた。
 右には窓があり、暗い夜空が見える。室内が明るいせいか星は見えない。
 そこから今がもう夜なのが分かった。
(今何時だろう?)
 ふと、そんなことが気にかかった。
 左に目を向けると、そこには点滴が下がっており、そこからのチューブが自分の左腕に繋がっている。
 そこでようやく自分が病院のベットに横になっているらしい事を理解した。
(でも・・・。なぜ病院に・・・?)
 しかしその理由までは分からない。
 それから少し頭を悩ませると、次第に記憶が鮮明になってきた。
(あっ・・・)
 そしてすぐに思い出した事を後悔する。
 ずっと忘れていた方が幸せだった記憶。
 本当なら消してしまいたい出来事。
(夢なら・・・本当に夢ならよかったのに・・・・・・。でも、あれは現実)
シャッ
「あっ、目が覚めたんだ。良かった〜。あの時はこのまま目を覚まさずに死んじゃうかと思ったから」
 その時カーテンが開いて、見知らぬ女性が姿を見せた。
 彼女はターニャの様子に安堵の吐息を吐くと笑顔を向けてくる。
「あの・・・あなたは?」
 しかし事情のまったく分からないターニャはそんな彼女の態度に戸惑ってしまう。
「あっ、いきなりごめんね。わたしは桜町由子」
「私はターニャ・リピンスキーです。もしかしてアナタが私をここまで?」
「うん、そうなんだけど」
 服装から医者や看護婦ではないだろうと判断したターニャの予想は正しかった。
「すみません。ご迷惑をおかけして・・・」
「あっ!まだ起きない方がいいよ。それに礼なんていいよ。でも、あの時はホントに驚いたなぁ」
 ターニャは頭を下げるためベットから身を起こそうとしたが、由子はそれを手で制す。
 ターニャも由子の勧めに従って再びベットに身を横たえる。
 それを見届けた由子はベットの脇にある丸イスに腰をかけた。
「前から女の子がよろよろと走ってきて、横を駆け抜けていったから何事かと思って振りかえったら、
その子が急にへたりこんで、そのまま倒れちゃうんだもん。
こりゃ大変だってんで、駆け寄ってみたら息は荒いわ意識はないわでさ」
 ターニャは由子の話を聞いている内に自分が何をしでかしたのかが分かり、だんだん恥ずかしくなってきた。
 それと同時に見ず知らずに他人にどれだけ迷惑をかけたか分かり、自分が情けなくなってくる。
 そのためターニャの表情は由子の前で見る見るうちに暗くなってゆく。
「あっと、ゴメンゴメン。本人の前でする話じゃないよね」
 そんなターニャの心情を雰囲気で察したのか、由子は手を軽く振りながら謝ってくる。
「いえ・・・」

「ま、大事がなくて良かったよ。でもなんであんな無茶な事したの?」

「それは・・・」

 そこでターニャは言葉を詰まらせた。
 事情を説明するには、自分の事を全て話さなければならない。
 でも、それは簡単に説明できるような内容ではないし、他人に話したいような事でもない。

「医者から聞いたんだけど、ターニャって心臓が丈夫じゃないんでしょ。
それなのに、倒れるまで走らなくちゃいけなかった。どうして?」

 しかしターニャが口をつぐんでも由子は構わず尋ねてくる。
 由子の口調から単なる好奇心だけで聞いているのではない事はターニャにも分かる。
 おそらく彼女は純粋に自分の事が心配で言ってくれているのだろう。

「・・・」

 しかし、ターニャの表情はまだ堅く、口を開こうとはしなかった。

「わたしってさ、こう見えても自衛官なの」

「えっ?」

 ターニャは由子のいきなりの話題転換におもわず彼女の顔を見る。
 由子はターニャがこちらを向いてくれたのがうれしかったのか、微笑みを浮かべながら優しい顔でターニャを見つめていた。

「自衛官には機密は絶対に他人に話してはいけないって守秘義務があるのよ。
だからタ―ニャが話した事だって絶対に誰にも言ったりしない。
それに悩みは他人に話すと案外簡単に解決する事もあるって言うじゃない」

 由子はそこまで話し終えると、今度は照れた笑みを浮かべた。

「でもまぁ、ターニャが悩んでいるかもって思ったのはただの勘だから。
わたしは勝手に勘違いしている、ただのおマヌケなお節介焼きなのかもしれないけどね〜」

「くすっ」

 ターニャは由子のおちゃらけた態度が可笑しくて、思わず笑みを浮かべていた。

「あっ、やっぱりわたしってただのマヌケだった?」

「いいえ・・・。聞いてくれますか、私の話・・・」

 そんな由子の笑顔と雰囲気からターニャは彼女が信用できる人だと思い、話してみる気になった。
 けれど本当はそんな信用など必要なくて。
 ホントはずっと前から誰かに話したかったのかもしれない。

「うん」

 ターニャの表情が引き締まるのを見て、由子も表情を改めるとターニャの話に耳を傾けた。



 ターニャは自分がこの国渡ってきた訳から話し、
 それから葉野香に出会った事、葉野香から彼女の恋人の秋吉を紹介してもらった事を話し、
 そして秋吉に自分の夢を叶える手助けをしてしてもらった事、
 その時からだんだんと彼のことが好きになってしまった事を話し、
 そして想いを告げてしまった事を話した。

「そっか・・・」

 由子はターニャの話を聞き終えると、難しい顔をして腕をくんだ。

「すみません。こんな話をしてしまって・・・」

「謝らないで、無理に聞いたのはこっちなんだから。
その〜・・・。葉野香ちゃんだっけ。彼女とその秋吉くんの仲ってどうなの?」

「誰が見ても、理想のカップルだと思います。私もそう思ってますし・・・」

「それじゃあ、ターニャが入りこむ余地なんて・・・」

「まったくありません」

 ターニャはそう言うと途端に表情を暗くした。

(あっ!)

 そんなターニャを見て、由子は自分が失言を呟いてしまったことに気づく。

(しまったぁ〜)

 由子は心の中で頭を抱えたが、1度口から出た言葉は元には戻らない。

「私・・・。これからいったいどうしたらいいんでしょうか・・・?」

 ターニャはうつむいてシーツに目を向けると、まるで独り言を呟くかのように尋ねてくる。
 由子は‘ふぅ’とターニャに聞こえないように小さく息を吐くと決心して口を開いた。

「・・・・・・わたしもね。似たような経験があるよ」

「えっ?」

 由子が放ったその言葉はターニャの心を強く惹き付け、彼女を再びこちらに振り向かせた。


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