その後、心ゆくまでカラオケを堪能した3人が店から出てくると、外の風景が少し紅色に染まり始めていた。
 それは、もうすぐ街に夜の帳がおりてくる事をしめしている。

「もうすぐ日も暮れそうだし、今日はもうお開きにしようか」

「はい。はやかも秋吉さんも今日はどうもありがとうございました。とっても楽しかったです」

「うん、あたしも楽しかった」

「僕もだよ」

「耕治さんとターニャは札幌の方だよね。耕治さん、ターニャを札幌まで送って行ってあげてよ」

「えっ!?そんな、ダメです!秋吉さんははやかを送って行ってあげてください」

「あたしの家はもうすぐそこだから大丈夫だよ。だから遠慮なんていらないよ、ターニャ」

「そうだよ。どうせ方向は一緒なんだから送って行くよ」

 葉野香の申し出は正直ターニャには魅力的だった。
 それは、今から秋吉と2人っきりになれるということであったから。
 しかし葉野香の前でその申し出を受けることはひどく後ろめたい。
 だからすぐには返事は出来なかった。

「・・・・・・はい。では、お願いします」

 しかしターニャは結局その申し出を受けた。
 断る理由を思いつけなかった事も理由の一つであった。
 だが自分の想いを押さえきれなかったことが一番の理由だったであろう。

「じゃ、またね、ターニャ。ダスヴィダーニャ」

「はい。ダスヴィダーニャ、はやか」

 葉野香は2人に手を振ると、雑踏の中に消えていった。

「ターニャ、今の言葉って何?」

 葉野香を見送った後、2人のやり取りを不思議そうに見ていた秋吉がそう尋ねてくる。

「あっ、ダスヴィダーニャですか。これはロシア語で‘さようなら’っていう意味の言葉です。
はやかは時々こういう時に使ってくれるんです」

「へ〜。ねぇ、もう一度ゆっくり言ってくれる」

「はい。ダ・ス・ヴィ・ダーニャ、です」

「ダ・ス・ヴィ・ダーニャ、ダスヴィダーニャ。うん、覚えた・・・と、思う」

「うふふ、ホントですか?」

「たぶんね。じゃ、そろそろ行こうか。地下鉄使う?」

「あ、いえ。歩いて行ってもいいですか?」

 ターニャは普段ならば地下鉄を使っている。
 しかし、今は秋吉と少しでも長くいたいという想いからか、ほとんど反射的にそう答えていた。

「いいよ。じゃ、散歩気分で、のんびり歩いて行こうか」

「はい」

 そして2人は札幌駅に向かって歩き出した。



 ターニャは秋吉の隣に並びながら、ひどく緊張していた。
 葉野香と3人でいた時には、それほど意識することはなかった。
 しかし、2人きりになると、どうしても秋吉を意識してしまう。
 
ドキドキドキドキ

 心臓がどんどん高鳴ってくる。
 それにあわせて頬も火照ってくるため、まともに秋吉の方を向く事も出来ない。
 しかし時々どうしても隣を歩いている秋吉の顔を盗み見てしまう。
 すると、秋吉もターニャの視線に気づいたのか、不意にこちらに顔を向けてきた。

ドキッ

 なんだか自分の想いが見透かされたような気がして、慌てて視線をそらすターニャ。

「どうかした?何か僕の顔についてる?」

 そんなターニャの様子を不審に思って、秋吉は自分の顔をぺたぺたと撫で回す。

「あっ!いいえ、何もついてないですよ。大丈夫です」



 その時、目の前から歩いてきていた女の子が地面の段差につまずき、よろけてターニャにぶつかった。

「あっ、大丈夫?」

 ターニャが咄嗟に女の子が倒れないように支えてあげると、身を屈めて女の子に話しかける。
 すると女の子は目を大きく見開いてターニャを見た。
 その眼差しには驚きと怯えが浮かんでいる。

「香奈、どうしたの?」

 女の子よりも少し先を歩いていた母親らしき女の人がこちらに振りかえって女の子に声をかけてくる。 
 女の子はターニャから後ずさるように離れると、母親の元へと駆けて行った。

「やっぱり、私は異邦人なんですね・・・」

 親子を見送った後にぽつりとそう呟いたターニャの横顔はひどく寂しそう見える。

「そんな!あの子はちょっと驚いただけだよ」

「大丈夫です、秋吉さん。私、慣れてますから」

 秋吉の咄嗟の弁明にターニャは小さく微笑むと、また前を向いて歩き出す。

「慣れてるって・・・」

 秋吉もすぐに歩き出してターニャの横に並ぶ。
 そして横から盗み見たターニャの表情は何事もなかったかのように普通で、でもどこか影があるように見える。
 その事が秋吉には辛かった。
 しかし秋吉にはターニャにかけてあげる言葉を見付かる事が出来ず、ただ隣に並んで歩いてあげることしか出来なかった。



 それからしばらく2人は無言で足を進めていたが、信号待ちで足を止めた時、

「あの」

 その静寂を不意にターニャが破った。

「少し寄り道しませんか?」

 2人が立っている場所はちょうど大通り公園の手前の信号で、道路の向こう側の木々の間からは公園の姿を覗き見ることが出来る。

「ああ、いいよ」

 秋吉はターニャがようやく口を開いてくれたことに安堵して軽い気持ちで応じ、2人は公園へと足を踏み入れた。



 大通り公園に入ると、ターニャはまず空を見上げた。
 空はもう地平のあたりを赤く染めているだけ薄紫色のようにも見える。
 太陽はすでその姿を隠していて、ここからでは見ることはかなわない。

「夕焼けには間に合わなかったね」

「そうですね」

 それでもターニャは空から目をはなさない。
 だから秋吉も隣に並んで空を見ていた。
 2人の眼前で空は刻々とその赤みを失ってゆき、ついには黒く染まりきってしまう。 

「・・・いきましょうか」

「そうだね」

 それを見届けた2人はようやくテレビ塔の方へと足を向けた。



 テレビ塔まではまだ距離があるこの位置からでも、ライトアップの光と電光時計はハッキリと見ることが出来る。
 2人はその光を目指して足を進めた。 
 昼間には出ていた出店はもうどこも店を閉めており、昼間はたくさんいる鳩の姿も見当たらず、人通りもまばら。
 あたりは一定の間隔で照明は照らされているとはいえ、昼間とは比べ物にならないくらいの明るさしかない。
 そんな薄暗い中では花も木も噴水でさえ寝静まっているような印象を受ける。

「ここは夜だと少し寂しい感じがしますね」

「そうだね。ホワイトイルミネーションの時は、夜でもずっと賑やかだったけど」

「私、ホワイトイルミネーションって見に来た事がないんです。
 北海道に住んでいるのに1度も見た事がないっていうのはやっぱりおかしいでしょうか?」

「そんな事ないと思うよ。僕も長い間東京に住んでいたけど、東京タワーには1度も昇った事はないしね」

「そうなんですか?」

「うん。地元の人の方が何時でも行けるって気持ちにいるからか、身近な観光名所ってなかなか行かないもんだよ」

「そうかもしれませんね」

 そんな事を話しているうちに2人はテレビ塔の間近までやって来ていた。

 その時、ちょうどテレビ塔の方から一組のカップルが歩いてくる。
 そのカップルの女性は男性の腕を取ると、うれしそうに自分の腕をからませた。
 そして男性に身を寄せると、自分の頭を男性の肩のもたれさせる。
 そのカップルは2人ともうれしそうに微笑みながらターニャたちの横を通り過ぎて行く。
 ターニャはそのカップル横目に見ながら、うらやましいと思うと同時に、
 もしかすると今は自分たちも周りからはカップルに見られているのではないか?
 という思いにかられた。

(ううん・・・私いったい何を考えているのでしょう。そんな事あるわけないのに・・・)

 でもすぐにターニャは自分の内で湧き上がった想い否定し、その想いを打ち消すかの様に小さく頭を振った。
 その時、目がそれためかターニャの足が階段の段差にひっかかる。

「あっ!」

「危ない!!」

 あわや階段で転びそうになるターニャを秋吉は腕を伸ばして支えようとする。
 そのため、ターニャは秋吉の胸に顔を埋める事になり、2人はまるで抱き合うかのような格好となった。
 ターニャはいきなり秋吉の体の感触と暖かさを感じて、一気心臓の鼓動が跳ね上がる。
 さらに頭にまで血が回って顔が真っ赤になり、逆に思考は真っ白になる。
 おまけに服越しに秋吉の心臓の鼓動まで感じ取れるため、ますます心拍数が上がってゆく。
 今のターニャの耳には痛いぐらい自分と秋吉の鼓動の音が響いていた。
 秋吉の方もおもわず抱きとめるような格好で受け止めたため、ターニャの体の柔らかさなどを感じ取って内心動揺しまくっていた。
 その動揺が秋吉の鼓動を早め、それがターニャにも伝わってしまうため、ターニャの方もますます落ち着かなくなってしまう。
 そのため2人はまるで硬直した様に動けなくなっていた。



「だ、大丈夫、ターニャ」

 その硬直を先に解いたのは秋吉の方だった。
 そして、その声で今まで真っ白になっていたターニャの脳がようやく動き再開し始める。

「あ、はい!大丈夫です!」

 しかし、そう答えたターニャの声は完全に裏返っていた。
 そうして秋吉の胸から顔を上げると、

ドキッ

 あまりに秋吉の顔が自分の顔の近くにあった。
 それは今にも触れてしまいそうなぐらいに。
 そのためターニャの動きが再び固まってしまう。
 その時、秋吉の身体にそえた手から何か硬い感触が伝わってきた。
 ‘それ’は秋吉が服の下に何か入れている物の感触だろう。
 しかも‘それ’の形はターニャが良く知っているものだった。

「秋吉さん・・・これは?」

 ターニャは秋吉の服に上から‘それ’をなぞるようにしながら問い掛けた。

「あっ!えっと・・・これは・・・・・・」

 秋吉はばつが悪いような顔をすると‘それ’を取り出す。
 秋吉が手にする‘それ’はターニャが予想したとおりのものであったにも関わらず、はっと息がつまった。

「・・・・・・赤いスズラン。ずっと、ずっと持っててくれたんですか・・・」

「うん・・・。ターニャから貰った大事なものだからね」

 秋吉は照れたような、恥ずかしいような顔しながらも柔らかい笑みをターニャに向けてくる。

(あっ・・・)

ドキン

 その笑顔と赤いスズランを見た瞬間、ターニャの胸がぐっと苦しくなり、何かとても熱いものが込み上げてきた。
 ようやく治まりかけていた心臓の鼓動も今度は息苦しいくらいに激しくなってくる。
 顔が紅潮してくるのが分かっているのに秋吉から目をはなせない。
 そして唇がある言葉を紡ぎ出そうと動き出す。

 ドクン

「あの・・・」

 ドクン ドクン

「私・・・」

 ドクン  ドクン  ドクン

「秋吉さんのことが好きです」


←ひとつ前へ

続きへ→

SSのトップに戻る。