ガシャーン

 工房にガラスの砕ける音が響く。
 それは今、彼女が足元に叩きつけたモノから聞こえてきた。

「はぁ・・・はぁ・・・」

 呼吸が荒い、心臓が嘘のような速さで血液を全身へと送っている。
 荒い息を吐きながらターニャは視線を下げた。
 すると足元に砕けた赤いガラス片が飛び散っている。

 ターニャは今まで1度も自分が造った作品を自らの意思で壊したことなどなかった。
 どんな失敗作でも、どんな気に入らない出来のモノでも、自分が魂を込めて造ったモノだから、ぞんざいな扱いなどは出来なかったか
らだ。
 でも、もうダメだった。
 前回造ったものはかなり良い出来で、夕焼けの赤にかなり近づけたと思っていた。
 だから今回のモノはかなり自信があったのだ。
 でも・・・出来上がったモノは前回のモノにすら及ばない酷い出来だった。
 前回、何かを掴んだような気になっていた彼女には、このことはひどくショックだった。

 彼女は今まで思いつく限りのとこを全て試みてきた。
 しかしそのことごとくが失敗に終わっている。
 今回のモノがダメだったのなら、
 もう打つ手がなかったのだ・・・。
 その事実が彼女を打ちのめし、
 今までのことで限界まで磨り減っていた心が
 ついに擦り切れてしまったのだ。



第2話 砕けた心 開いたハート


 周囲からは彼女の身体に突き刺さすような視線があびせられた。

「あっ・・・」

 少し気が治まってきていた彼女はその気配にようやく気づいた

「っ・・・!」

 そして居た堪れなくなって工房を飛び出した。

 あの場所にはいたくない。

 その思いだが今の彼女を突き動かしていた。
 工房を飛び出した彼女はそのまま駆け足で駅へ向かう。
 そしてちょうど目の前に到着した汽車に飛び乗った。

「はぁはぁ・・・」

 息が苦しい。
 心臓が悲鳴をあげている。
 ここまで全力で走ってきた影響を心臓が1番強く受けていた。
 ターニャは普段なら心臓に負担をかけるようなことは絶対にしない。
 彼女はいつもの時の様に目を閉じ、胸に手をあてて呼吸が治まるのを待った。
 すると、だんだんと呼吸も心臓も楽になってくる。

「・・・・・・ふぅ」

 彼女は呼吸が落ち着いたのを見計らって目を開けた。
 すると目の前には車窓から見える風景があった。
 うつろな目でその風景をなんとなく眺める。
 どれくらいそうしていただろう。
 ふと、窓ガラスに薄く自分の顔がうつっていることに気づいた。
 その顔はやけに歪んで見えた。

(酷い顔・・・)

 そんな自分を見ているのが嫌で、彼女は次の駅で降りた。



 しかしターニャは駅を降りたことをすぐに後悔した。
 その駅は札幌駅だったからだ。
 今の彼女は人ごみの中を歩くような気分ではなかったから。
 でも、もう1度汽車に乗るような気分でもなかったため、ターニャは人気の少ない北の方の出口を目指して歩き出した。



 どのくらい歩いただろうか。
 あまりこちらの方には来ないので彼女は自分が何処にいるのか良く分からなくなっていた。
 そしてしばらくすると木で囲われた広い敷地が見えてきた。
 彼女は誘われるように、なんとなくその並木道に沿って歩いた。
 すると木々の間から中を覗くと大きな建物が見える。

(何の建物でしょう?学校でしょうか?でも、学校にしては敷地が広すぎる気がしますし)

 でも、彼女の周りには学生風の人の姿がたくさん見うけられた。
 彼女はナホトカの小さな学校しか知らず、そこすら満足に出てはいないため、ここが何なのか判別することが出来なかった。
 そんな風に敷地の中を眺めながら歩いていると、

「ターニャ?」

ビクッ!!

 突然後ろから名前を呼ばれ、ターニャは大きく身体を震わせて驚いた。
 慌てて振り返ると、そこには1人の男性が立っている。

「あ、秋吉さん!」

 その人物は以前会った葉野香の恋人の秋吉耕治だった。
 ターニャはまさかこんな所で見知った人と出会うとは思っていなかっただけに余計に驚いていた。

「やっぱりターニャだ。人違いだったらどうしようかと思ったよ」

 秋吉は安堵の表情を浮かべながらターニャに微笑みかけた。
 何故か彼女はその笑みに安心感を覚え、足を止めた。

「こんな所で会うなんて、すっごい偶然だね。もしかしてここの留学生ってことはないよね」

「はい、違います。もしかしてここははやかや秋吉さんが通っている大学なのですか?」

「そうだよ」

「そうだったのですか・・・」

 ターニャは改めて敷地の中の建物に目を向ける。

(こんな大きな学校でいったいどんな勉強をしているのでしょうか?)

 それはいくら考えても彼女には想像もつかなかいことだった。

「ところで今日はどうしたの?仕事は休み?」

「あっ、はい・・・。まぁ・・・」

 まさか職場を飛び出してきたとは言えず、ターニャはあいまいに頷いた。

「じゃあ今は散歩の途中か何か?それとも買い物か何かに行く所かな?」

「そんなところです」

 ターニャはどうにかぎこちなく笑みを浮かべながら答えた。
 しかしその答えも嘘であったので、少しだけ胸に罪悪感が芽生えた。

「そっか。じゃあターニャってこの辺りに住んでるの?」

「いいえ。私は職場の寮に住んでいますから、この辺りではありません」

「そうなんだ。僕はこの近くに住んでるんだよ」

「たしか・・・1人暮らしでしたよね」

「うん。今まで1人暮らしなんてしたことなかったから、色々大変だけどね・・・家事とか」

「はやかは家事とか、やりに来てはくれないのですか?」

「残念ながら、引っ越しの時に1度手伝いに来てくれたっきりです」

「そうなんですか」

「これって、やっぱり警戒されてるのかな?」

「うふふ、そうかもしれませんね」

 自分が今笑っている。
 その事が彼女はとってはとても不思議な事に思えた。

(さっきまでどろどろとした暗い気持ちを抱えていて押し潰されそうになっていたはずなのに。
 何故なのだろう。
 彼と話していただけなのに。
 彼の持つ雰囲気のせいでしょうか。
 それとも彼が私に向けてくれる笑顔がすごく自然だからでしょうか。
 理由は良く分からないけど・・・。
 ただ、ずいぶんと心が楽になっている)

 そのことだけは事実だった。



「秋吉さん。今日はこれから何か予定はありますか?」

 この時、彼女は無意識のうちに勝手にしゃべり出していた。

「えっ。いや、今日はもう講義もないし、別にこれといった用事はないけど」

 そして

「だったら、今日1日私に付き合ってくれませんか」

 とんでもない事を言っていた。



 ターニャは自分でも何故突然あんなことを言ったのかは分からなかった。
 ただ自然と口について出た言葉だった。
 そんな想いを露とも知らない秋吉は

「へっ?」

 と、間の抜けた声をあげた後、彼女の願いを快諾した。

「で、何処に行くの?」

「あっ、はい。あのですね・・・」

 そう聞かれてターニャは困った。
 自分でも突然の成り行きでこうなったので、何処に行くかなんて決めていなかったからだ。

「えっと、その、あの・・・」

 そしてどうにか頭に浮かんできたものは

「大学の中を案内してください」

 というものだった。



 それからターニャと秋吉は連れだって大学の中へ入っていった。
 しかしターニャは今まで男性と並んで歩いた事などほとんどなく。
 かなり緊張しながら秋吉の隣を歩いていた。
 そして改めて見る大学の中はターニャが想像していたものより、ずっと広かった。
 
(こんなにたくさんの木が植えてるなんて・・・まるで公園のよう)

 そんな事を考えながらターニャはきょろきょろと周りを見渡しながら歩いた。

「ターニャは大学に入るのは初めて?」

 そんなターニャの態度を見て、ふと秋吉は勘を働かせて聞いてみた。

「はい、そうです・・・」

 ターニャは自分が満足に学校に行っていなかったことを見透かされたような気になり、恥ずかしくなってうつむいてしまう。

「そっか。大きくて広いよね大学って。僕も最初に来た時は驚いたよ」

 しかし秋吉はターニャの内面の想いには気づかず、柔らかく微笑みかけた。
 それだけでターニャの心は随分と落ち着いてくるのだった。

(不思議な人・・・。そしてきっと、とても優しい人・・・)

 その時、彼女はそう感じた。



「あれが法学部の建物。あっちが文学部で、その隣が教育学部。
このあたりは普通の学部が並んでいるけど、もっと向こうには
電子科学研究所とか、低温科学研究所とか、遺伝子病制御研究所とか難しい建物のあるんだよ。
他にも北海道ならではの農場とか、獣医学部とか、家畜病院とかもあるんだけどね」

 秋吉は道すがら出来るだけ丁寧に大学のことを説明して歩いた。
 しかしターニャには彼の話す内容をほとんど理解出来てはいなかったが。
 けれど、ターニャは彼が一生懸命説明してくれる姿を見ているのだけで、なんだかうれしくなった。
 そしてふと思った。

(私はこんなに男性と話せる方だったろうか?秋吉さんははやかの恋人だから話易いのでしょうか?)

 どちらかといえばターニャは男性と話をするのは苦手としていた。
 だけれど秋吉とは自然に会話をしている。
 ターニャ自身もそのことを不思議に思っていたが、しばらくするとそんな事も忘れ、ただ秋吉との会話を楽しんだ。



「ま、色々あるけど1番特徴的なのは緑が多いってことかな。これは僕が東京から来たから思うのかもしれないけど」

「いいえ、たしかにここは緑が多いと思いますよ。まるで公園のようです」

「公園か・・・。たしかに向こうには池もあるし、そんな感じにも見えるね」

「池まであるんですか?」

「そうだよ。そんなに大きくはないけど。行ってみる?」

「はい。ぜひ」



 秋吉が案内されて来たその場所は木々に囲われた池だった。
 そこは大学内ではちょっとした余暇を楽しむ憩いの場として利用されている所だった。
 池の周りにはたくさんの植物が芽吹き、周囲のベンチでは人々が本を読んだり、おしゃべりをしたりしている。
 そして池の中ではたくさんのカモが泳いでいる。
 ここのカモはけっこう人に馴れているためある程度までなら近寄っても逃げたりしなかった。

「うわ、可愛いですね。カモがこんなにたくさん。まるで道庁の池みたいですね」

「そうだね。あそこほど大きくはないけどね」

 ターニャはしゃがみこんで近くまで寄って来たカモに触ろうと手を伸ばした。
 けれど、カモは嫌がって逃げてしまう。

「あっ、逃げちゃいました」

 ターニャは少し寂しそうに逃げたカモを目で追った。

「ははっ。馴れていても、さすがに触るのは無理だよ。ここで少し休んでいこうか?」

「はい」

 秋吉は近くのベンチまで行って、軽くその上を払ってから腰掛けた。
 ターニャも彼にならって隣に腰掛ける。
 そのベンチはそれほど大きくはなかったので、隣に座ると秋吉との距離がかなり近くなってしまう。
 ターニャはこんなに男性に近づくのは初めてなので、緊張のためか心臓の鼓動が早くなっていった。

(心臓が・・・。秋吉さんに聞こえてしまわないでしょうか・・・。もし聞こえていたら変に思われるでしょうか?)

「ところで仕事の方はどう?順調?」

 ターニャの動揺とは裏腹に、秋吉の方は何とも無い様子で、軽くそう聞いてきた。

ドクン!!

 しかしその内容はターニャの心臓をさらに大きく高鳴らせる。
 そしてその言葉は工芸館での出来事を思い出させるのに十分な力を持っていた。
 それはターニャは今までの明るい気分が嘘だったかのように心を重くさせた。

(私はその職場から逃げ出してきたのに・・・)

 ターニャは不思議なことに今までホントにそのことを忘れていたのだ。
 それは秋吉の持つ、穏やかな雰囲気にのまれていたからだろうか。

「ええ、なんとか・・・」

 そんな秋吉に余計な心配をかけさせたくはないターニャはなんとか頷いてみせた。

「そっか。それじゃあ夕焼けの赤の方はどう?完成した?」

 しかしそれは今のターニャが最も辛いことを尋ねられる結果を生んだ。
 そしてターニャの心臓は発作が起こったかの様に苦しくなってきた。

「いいえ、それはまだ・・・」

 それでもターニャは懸命に答えた。
 けれど今度は鎮痛な思いが顔にも声にも出てしまった。

「そうか・・・」

 それを察した秋吉も表情を少し暗くした。
 しかしこの時の秋吉はまだターニャの本当の辛さまで読み取ることまでは出来ていなかった。
 
「夕焼けの赤か・・・。どんな色なんだろうな・・・」

 そのため、こんな軽口も出てくる。

 

←ひとつ前へ

続きへ→

SSのトップに戻る