カランカラン

 店内にカウベルの音が響く。
 それは仕事を終えたターニャがエンゼルへとやって来た印だった。
 その音を聞きつけたマスターが入り口を振り返る。
 そして、そこにターニャの姿を見とめて笑顔を浮かべた。

「おや。いらっしゃい、ターニャ」

「こんばんは、マスター」

 店内はもう時間も遅いせいか客が一人もおらず、ターニャとマスターの2人っきりだった。

「いつものでいいかい?」

 ターニャがいつも座る席に着くと、マスターは水をテーブルに置いてそう尋ねた。

「はい、お願いします」

「分かった」

 マスターは一旦カウンターの方に行き、そしてしばらくした後ロシアンティーを2つ持って戻って来た。

「マスター。なぜ2つなのですか?」

 ターニャは目の前に並べられてゆくカップを眺めながら不思議そうに尋ねた。

「もう一つは私の分だからさ」

「お店はいいのですか?」

「見てのとおり、お客さんは目の前にいるお嬢さんが1人だけだからね。構わないさ」

 マスターがそう言いながらウインクをしたので、ターニャはクスリと笑みをもらした。

「それに、何か話があるのだろう」

 マスターはターニャの前の席に腰掛け、カップを自分の方へ引き寄せた。

「えっ!どうして分かったんですか?」

 ターニャは図星を突かれた驚きのため、ジャムを紅茶に入れる手を止めてマスターを見た。

「何時になくターニャの顔がうれしそうだったからね。きっと何かいいことがあったんだと思ってね。違うかい?」

 マスターはジャムをすくいながら悠々と答えた。

「いいえ、違いません。実は・・・夕焼けの赤が完成したんです」

 ターニャは手の動きを再開させながらそう言った。

「えっ!!」

 そして今度はマスターが驚きで手を止める番だった。

「見てください」

 ターニャはバックからベネチアン・グラスを取り出すとテーブルに置いた。

「ほぉ〜・・・これがそうか・・・・・・。いや、おめでとう、ターニャ」

 マスターはベネチアン・グラスをまじまじと見つめた後、うれしそうに頬をゆるませ笑顔を向けてきた。

「ありがとうございます」

 自然とターニャも頬が緩んで笑顔になる。

「でも、どうやって完成させたんだい?今までどうやっても作れなかったんだろ?」

「実は・・・」

 ターニャは昨日から今日までのあらましをマスターに語って聞かせた。



「そうか・・・。赤いスズランはお店には置いてもらえなかったのか・・・」

 ターニャの話を聞き終えたマスターは表情を少し曇らせながら呟いた。

「そんなに暗くならないでください。私は平気ですから」

 そんなマスターの様子を見て、ターニャは努めて明るくそう言った。

「そうなのかい?それならいいのだけど・・・」

「はい、大丈夫です」

 そう言うターニャの表情に本当に陰がなかったため、マスターは安心して表情を緩めた。

「でも意外だな。もっと落ち込んでいるものかと思ったけど」

「そうですね・・・」

 そのことはターニャ自身も気になっていた。
 たしかに赤いスズランが認められなかったことはショックだった。
 しかし不思議とその事で自分がそれほど落ちこんではいない事に気づいていた。
 でもその理由についてはさっぱり分からない。
 自分は夕焼けの赤を出したかっただけで、スズランの事は実はどうでもいいと思っていたのではないか?
 そんな風に考えそうになって、その事の方で落ち込みそうになったぐらいである。

「それは、あれかな。その秋吉くんのせいかな」

「えっ!どうしてですか?」

 ターニャには何故ここで秋吉の名前が出てくるのか分からず、不思議そうな顔で聞き返した。

「ターニャはその秋吉くんのことが好きなんだろ。
 好きな人に大切なモノを渡せたんだから、とりあえずそれで満足できたんじゃないかな」

 マスターは軽い口調で微笑みながら言っていたが、その言葉はターニャにものすごい衝撃をあたえていた。

「私が・・・秋吉さんのことを好き?」

 ターニャは半ば呆然としながらそう呟いた。

「あれ、違うのかい?私はターニャの話ぶりからそう思ったんだけど?」

 マスターはターニャの表情を見ながら意外そうに聞き返した。

「そ、そんなはずありません!!だって・・・。だって秋吉さんははやかの恋人なんですよ!!」

 マスターの声で我にかえったターニャはすぐに大声を上げて否定した。

「そ、そうかい・・・。ごめんよ、ターニャ。変なこと言ってしまって・・・」

 マスターはターニャのあまりの剣幕に腰を引かせながら謝った。
 しかしその言葉はターニャの耳には届いていなかった。 

「そんなはず・・・ありません・・・」

 そう呟く言葉とは裏腹にターニャの心臓は息苦しいくらい激しく鼓動を刻んでいた。
 それはあたかもターニャ自身の言葉を嘲笑うかのように。

(そんなはずない。そんなはずないんです・・・)

 それでもターニャは心の中でそう呟き続けた。
 まるで自分に言い聞かせるかのように。



 ターニャはエンゼルを出た後はまっすぐ自分の部屋へと帰って来た。
 そして部屋に入ると、まるで吸いこまれるようにベットに倒れこんだ。
ターニャはここに戻ってくるまでの間ずっとマスターに言われた事を考えていた。
 たしかに、自分が落ち込んでいるとき、側にいて励ましてくれて、そして夕焼けの赤を完成させるキッカケをくれたのは秋吉だ。
 それに、何故か秋吉の側にいると安心できる。
 心が落ち着く。
 だから赤いスズランを作るときにも側にいてもらったのだ。
 秋吉に赤いスズランを受け取ってくれたくれた時はとてもうれしかった。
 それに秋吉がいなくなった後、ターニャはひどく切ない気持ちにもなった。
 でもそれらの事が秋吉を好きという事と結びつくのかどうかは分からない。
 ただ、

(私は秋吉さんに惹かれ始めている)

 その事だけははっきりと分かった。
 でも、それは決して抱いてはいけない感情であった。

ピリリリリリリ

 ベットに顔を伏せ、そんな想いを抱いきながら苦悩しているターニャの耳にバックに入れてある携帯電話の呼出音が届いた。

(誰でしょう?こんな時間に・・・)

 ターニャはベットから身を起こすと、バックから携帯を取り出す。

「もしもし」

『もしもしターニャ。あたし、葉野香』

ドキッ

 ターニャは葉野香の声を聞いて、一瞬胸の鼓動を高めた。
 それはターニャが今、葉野香に対して後ろめたい想いに捕われている証拠でもあった。

「はやか?どうしたんですか、こんな時間に?」

 それでもターニャは努めて冷静な声で応えた。
 それは葉野香には決して自分の気持ちを知られてはいけないという一念からだったのかもしれない。

『ターニャ。夕焼けの赤、完成させたんだって!おめでとう!!』

 それはターニャにとってあまりにいきなりで唐突な言葉だったので驚いていた。
 まさか葉野香の口からそんな言葉が出てくるなど思いもしなかったのだから。

「ありがとう、はやか。でもどうして知っているのですか?」

『耕治さんから聞いたんだよ』

「そうですか。秋吉さんが・・・」

 葉野香の口から秋吉の名前が出ると、ターニャの胸が少しだけチクリと痛んだ。
 でも、わざわざ秋吉が自分の事を葉野香に伝えてくれたのはうれしかった。

『でも残念だったね。せっかく作った第1号はお店には置いて貰えなかったんだろ』

「はい・・・」

『赤いスズランでしょ。耕治さんに見せてもらったけど、すッごく良かったよ。あたしなら絶対買うのになぁ』

「ふふっ、ありがとう、はやか。そう言って貰えてうれしいです」

 そう言ってもらえた事は純粋にうれしくて、ターニャの顔には笑みを浮かんでいた。



『ねぇ、ターニャ。今度またゆっくり会おうよ。その時に夕焼けの赤の完成のお祝いしてあげるからさ』

「えっ!?そんな・・・。そこまでしてもらうのは悪いです・・・」

『別にそんなに大袈裟なものじゃなくて、ちょっとしたお店でちょっと高価なものでお茶するぐらいだからさ。いいだろ?』

「はい・・・。それでしたら」

 本当は今のターニャは葉野香と合わせる顔がないと思っていたのだが、
 葉野香が本当に自分のためにしてくれている事が分かるため、無下に断ることは出来なかった。

『それじゃあ細かい事は今度までに決めておくから、また連絡するよ。じゃ、おやすみ、ターニャ』

「おやすみなさい、はやか」

ピッ

 ターニャは携帯を切ると、しばらく携帯の画面を黙って見つめ続けた。
 それから今度はベットにあお向けで倒れこむ。
 するとターニャの手から放れた携帯がベットの上を滑った。
 そしてターニャはぼんやり天井を見ながら、葉野香の事を考えた。
 ターニャは葉野香が夕焼けの赤の事を自分の事の様によろこんでくれた事は本当にうれしかった。
 自分のしたことで誰かがよろこんでくれる。
 しかもその誰かが自分の大切な人で大好きな人だったこと。
 そのことはとてもうれしかった。
 しかしそんな大切な人の恋人に想いをよせてしまった。
 そんな自分はそんな大切な葉野香を裏切るような事をしているのではないか?
 そう思うと胸がひどく痛かった。



 次の日からまたターニャは運河工芸館で仕事に励むようになった。
 しかし、夕焼けの赤には今だ手をつけてはいなかった。
 赤いスズラン以外の夕焼けの赤を使った作品を思いつけなかった事も確かに理由一つではある。
 しかし本当に理由は、夕焼けの赤の事を考えると、どうしても秋吉の事まで考えてしまって集中できないからだった。
 だから主に仕事はレジ打ちに専念していたのだが、ちょっと暇な時間が空くと秋吉の事を考えてしまう。
 そんな時は自分でも知らぬ間にぼんやりしているらしく、お客が目の前にいてもしばらく気がつかない事まであった。

(こんな事じゃいけない!秋吉さんは、はやかの恋人。会わなければ、考えなければきっと大丈夫)

 そう自分に言い聞かせるのだが、一度意識してしまった想いは自分の意思では、もうどうしようもなくなっていた。
 考えまいとすればするほど意識してしまう。
 それはまるで底にない深みにはまってゆく様であった。
 そしてターニャの内で秋吉の存在がどんどん大きくなってゆく。
 それはもう止めようもないくらいに。
 そして、もうタ−ニャは自分の気持ちに気づいていた。
 自分が秋吉の事を好きになっていることに。
 しかし秋吉の存在が大きくなればなるほど、ターニャの心は傷つき、疲弊していった。
 息がつまるような、胸が締め付けるような想いと葉野香に対する罪悪感によって。



 そんな日々が数日続いたある晩。

ピリリリリリリ

 ターニャの携帯に電話がかかってきた。

「もしもし」

『もしもしターニャ。あたし、葉野香』

ビクッ

 ターニャは葉野香の声を聞いて、大きく身体を振るわせた。
 以前なら、葉野香の声を聞いただけで、うれしくなったものなのに。

(はやかの声を聞いて脅えるなんて・・・。いつから私はこんな人間になってしまったんでしょう・・・)

「・・・こんばんは、はやか」

 ターニャは自己嫌悪と後ろめたさを感じながらも、どうにか口を動かした。

『こんばんは、ターニャ。あのね、明日ってターニャ仕事は休みでしょ。久しぶりに会えないかな?』

 ターニャはその誘いが夕焼けの赤の歓迎会の事だと分かっていた。
 しかし今のターニャは葉野香に会った時、ちゃんと彼女と面と向かって話が出来る自信がなかった。
 それに今の自分を彼女には見せたくなかった。
 葉野香に嫉妬と妬みを抱いている自分の姿を。

「すみません、はやか。実は昨日からずっと身体の具合が悪くて・・・」

 だからそう言って断ってしまった。
 すると葉野香は

『そっか・・・。それじゃあ、また今度だね。ごめんね。体調が悪いのに電話して』

 と、残念そうな声をさせた後、ターニャに対して謝ってきた。
 そこには本当にターニャを気遣う想いがこめられていた。
 そのことがさらにターニャの心を痛ませた。

(私はなんて醜いのだろう!!
 私は自分の弱い心と卑しい心をさらけだすのを嫌って彼女に嘘をついたというのに。
 それなのに、逆にはやかに負い目をみさせるなんて!!
 はやかは・・・はやかは何も悪くないのに・・・)

 それはターニャに自分が大罪を犯したような錯覚さえ起こさせた。

「はやか!!」

 ターニャはいっそ全てを話してしまいたくなって携帯に呼びかけた。

『なに、ターニャ?』

「・・・」

 しかし言えなかった。

 ‘あなたの恋人を好きになってしまいました’

 そんなこと言えるはずがなかった。

『どうしたのターニャ?』

 何も言えずにずっと黙ってたせいか、携帯の向こうから心配そうな葉野香の声がする。

「ごめんなさい・・・」

 結局ターニャはこれだけしか言えなかった。

『いいよ、そんなの。体調が悪いんだったら仕方ないしさ。明日はゆっくり休んで体調戻しなよ』

 しかし葉野香はそれを遊びに行けないことへの謝罪と受け取った。

「はい・・・」

『じゃ、またね。おやすみターニャ。あったかくして寝るんだよ』

「おやすみなさい、はやか」

ツー ツー

 携帯が切れた後、ターニャはボンヤリと何も言わなくなった携帯を眺めていた。
 しばらくそうしていた後、ターニャの身体はゆっくりと横倒しにベットに倒れこんだ。
 その時、携帯が手から滑り落ちたが、ターニャは気にしなかった。
 いや、出来なかったというほうが正しいだろうか。
 それからうつ伏せになると、枕に顔を押し付けた。
 そうしていると勝手に涙が枕を濡らし始める。

「ごめんなさい、はやか・・・」

 そして涙と同時に言葉がもれた。

「ごめんなさい・・・ごめんなさい・・・」

 そして泣き疲れて眠るまで、ずっと謝り続けていた。


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