北へ。Wing Owners
3.

 ナホトカのロシア正教教会、十字架と棺の前でヴィクトルは肩を落としていた。やっとのことで帰郷し対面した母のやつれた顔
は、ヴィクトルを打ちのめした。その頬には、長年の病苦の後が拭いようもなく刻み込まれていた。心臓の病が寿命を少しづつ削り
取っていった、その傷跡だった。

 もともとパイロットの妻であった母は、自分が空軍の戦闘機乗りになったことを何より誇りにしていた。ベトナムで死んだ父(注1)
に代わり、女手一つで育ててくれた。病床でも自分の職務を気遣い、最後まで連絡を拒んでいたらしい。ただヴィクトルにも予感
があった。最後のクリスマスに会った母の肌は、透き通るように白かった。強く頼もしい筈の母がひどく儚く見えた。休暇の延長も
考えたが、母はそれを許さなかった。

 「ロシアで最も栄誉ある仕事をしているのよ。あなたはロシア人の誇りを背負っているの。それを休もうなんて、考えるものでは
ないわ。」

 舞い戻った基地は、閑散としていた。燃料の乏しい航空基地は、惨めなものだった。ウォッカが無いといって燃料を呑んだという
のは、今や昔の御伽噺だ。滑走路の脇では、餓死した航空機達が無残な骸をさらしている。ウォッカで彼女たちが生きながらえるな
ら、パイロットたちは自分のウォッカを差し出しただろう。ブリーフィングに次ぐブリーフィング、自由に空を飛べないパイロット
は惨め極まる存在だった。

 それでもヴィクトルは地上に留め置かれたコクピットに入り、イメージトレーニングを欠かさなかった。それが認められたのか、
新型Su-27SM(注2)の評価試験担当を言い渡され、ぴかぴかの新造機と対面した。久しぶりの高揚感に包まれた夜、長い間会って
いない叔母から電話が掛かってきた。その時は、既に母が天に召された後だった。

 クリスマスの母の顔は、念入りな化粧で糊塗されていた。それに気付かなかった。こんな母を置いて帰った基地で、自分は飛べな
い飛行機の中でただ座っているだけだったのだ。揺れるヴィクトルの肩をやさしく抱いてくれる手があった。叔母の手は、まさしく
母の手のような温もりに満ちていた。その温もりは、まだ親の庇護を受けていただけの、少年時代を思い起こさせた。ヴィクトル
は、眼を閉じてその安らぎに身を任せた。

 叔母には自分より少し年下の女の子がいて、昔はよく一緒に遊んだものだった。その頃は前の叔父も健在で、叔父が熱いドロドロ
から見事なガラス製品が作り出す光景をその子と一緒に魔法を見るようにわくわくしながら眺めたものだった。そしていつの間に
か、横で眼を輝かせている女の子をちらちらと見るようになっていたことも懐かしく思い出された。

 「姉さんは、最後まであなたを気にかけていたわ。私に何度も何度も自慢するの。本当に強い人だった。強すぎて、看護婦さんに
も少し強情とあきれられるぐらいでね。そういえば、うちのターニャも似たところがあるわ。多分血筋ね…」

 血筋…ターニャ、そういえば、あの子の肌も母と同じように白かった。

 「ありがとう叔母さん。母が本当にお世話になりました。ターニャは元気にしてますか。」

 叔母は少し困った顔をした。

 「あの子はあなたのお母さんと同じ病気を抱えているの。けど、今は日本にいるから良いお医者さまに診てもらえるみたい。」

 叔父が死に叔母が再婚した際、ターニャが家を出た事は知っていたが、まだ戻っていないとは思ってもみなかった。そして母と同
じ病気を病んでいるというのは、全くの初耳だった。

 「病気、悪くはないんですよね。母みたいな発作を起こすほどでは。」

 叔母は悲しげに首を振った。

 「発作は、時々あるらしいの。今度手術をするって手紙が着たわ。担当のお医者様が名医だから心配するなって書いてあったけれ
ど…」

 遠く離れた娘を思いやる母の気持ちは、ヴィクトルの胸を打った。相手の自分を思いやる気持ちを無駄に出来ない、それが逆に自
分の気持ちを縛り付けている。それは、ヴィクトルを苛んでいたジレンマと全く同じ物だった。そして、叔母は、母の病苦と思い、
その両方を知ってしまったのだ。ヴィクトルは、叔母の肩を抱いていた。

 ヴィクトルの脳裏で、小さかったターニャの顔と若かりし頃の母の面影が重なっていた。ロシア正教のきらびやかな金の十字架
は、ヴィクトルをあざ笑うかのように輝いていた。栄光の名のもとに地上に磔にされた自分。本当の翼が欲しかった。十字架を引き
ちぎるような力、それが欲しい…

 「それで、叔母さん、その手術は何時なのですか…」

(注1)ベトナムで死んだ父:ベトナム戦争にソビエト空軍が参戦したことは無い。これが表向きな話だが、「北ベトナムのパイロ
ットを教えていたソビエトの教官パイロットが実戦にも参加していた」、と多くの小説ではなっている。まあありそうな話である。

(注2)Su-27SM:電子機器を新型にしたSu-27のアップグレードバージョン。アナログの計器盤から、多機能ディスプレーに表示
機器を置き換わり、操縦桿とスロットルおよびそれに取り付けられたスイッチ類でほとんどの操作が可能。ただし、エンジンノズル
自体を動かす推力偏向や機首へのカナード翼(先尾翼…変な言葉)など最新機体制御技術は投入されていない。インドが購入した
Su-30MKIは両技術を投入した機体であり、中国もこれに準じる機体を導入する動きがある。北へ。とはまるで関係のなさそうな話だ
が、本作はそういう話である。


4.

 北海大付属病院、夕食時が過ぎ、就寝前の診察までささやかな静けさが院内を包んでいる。薫は、春野を見つめていた。実際、春
野が悩んでみたところで仕方の無い話だった。本人、ターニャの意思は固い。医者としては「前向きな決断」の一言で済ましても問
題ない状況なのだ。それでも薫は待った。ターニャは、自分が主治医となった初めての患者でもあるのだ。

 それは、らしくない思い入れかも知れなかった。学生時代、患者への思い入れはしばしば議論の的になった。それを否定すること
は、プロになることと同義のように扱われ、一面では確かな真実だった。しかし、それは一般とプロを明確に区別することだ。患者
は一般の環境の中に生きている。それを切り捨てることは、決して懸命な判断とは言えない。そして故郷を離れているターニャにと
って、最も重大な環境要素は春野なのだ。

 不機嫌なバルケッタ(注1)を整備に出して、問題ないとつき返されたことが思い出される。数日後のツーリングでエンジンがブロ
ーした。「シリンダーがいっちゃってますね」、整備屋は前見たときは異常無かったとしらっとしたものだった。

 「成功しますよね。いや、させてください。」

 春野は期待した顔をこちらに向けていた。かわいそうではあったが、実際それでは困るのだ。

 「絶対とは言えない。それは何度も言っている筈よ。ミサイルってあるわよね。あれ必ず当るって言える物なの。」

 春野は力なく首を振った。

 「それでもあなた達は、それに命を預けているわけでしょ。」

 今度は頷いた。期待どおりの反応だ。

 「あなたの操縦でそれを当てる、それにあなたはベストを尽くすのよね。けどあなただけでそれが出来ると言える。」

 「それだけじゃない。レーダーや基地のみんなの支援が必要です。」

 春野はハツラツとした声を上げた。

 「そういうこと。それがあれば、あなたは当てられる自信がある。私たち医者も同じことよ。もちろん、それでも難しいって時も
あるのだけれど、今回は私たちに歩が大きいわ。がんばりましょう…」

 春野の眼は、自信に漲っていた。今度本格的にカウンセリングもやってみようかしら…春野が患者の力になってくれるなら、今回
の手術は私に歩がある。心臓に関わる手術、ベテランの医師では無く自分に担当して欲しいと言ってくれたターニャの眼、その青く
澄み切った炎を思い出す。

 「俺もがんばります。一緒に戦いましょう。」

 「そうね、がんばりましょう。」

 最後の言葉とともに春野は、席を立っていた。礼をしながら部屋を出て行く。その時、時計のタイマーが鳴った。そうこれは戦い
だ。大切な時間を割いたが、心強い戦友が生まれたのだからその価値はあった。春野に対する答えは、自分に対する答えでもあっ
た。あの子は居るだけで、なにかを私から引き出してくれる…薫は立ちあがると、ナースステーションに向かって歩きだした。

(注1)バルケッタ:椎名 薫の愛車。オバQの弟とは無関係。薫の物は黄色いオープンだが、雪が降るところでオープンとは趣味用
としか考えられない。イタリア、フィアット社の車らしいが、日本でのセールスはほとんど無いだろう。整備士は、パーツの取り寄
せがめんどくさかっただけかも知れない。本来(注)を入れるほどの事はないのだが、切れ目が分かり易いようにあえて書いてみ
た。だいたいよく知らないことを書くのは無責任だ。けどそれを言ったら、筆者は恋愛もの自体書いてはいかんわけになる。



5.

 セカンド・フラッシュ、セカンド・フラッシュ、ラーメンより高い…じゃなくてダージリンの2番茶…アッザム(注1)、未知の強
敵だ。いや濁点は無し、タマネギは関係ない…

鷲頭は喫茶店アッサムのドアを潜った。

 「いらっしゃいませ。こちらでよろしいですか。」

いかにもという老紳士、薦められたのは窓際のよさそうな席だ。

 「どうも。」

 席に着く。無理を承知で春野に頼み、やっととり付けた謝罪の席だ。約束の時間まで後30分、それまでにここの空気に慣れるの
だ。

 「ご注文は、お決まりですか。」

 そう、まだ時間はたっぷりある。とりあえず紅茶を飲んでおくのも悪くない。基地では安物のコーヒーばかりで紅茶は缶入りをた
まに飲む程度、店で頼むのはほとんど初めてだ。

 「じゃあ、レギュラーで…」

 老紳士の方眉が上がった。

 「レギュラーと仰いますと?」

 額から汗が滲みだした。レギュラーはないのか?

 「いや、ですから普通の…」

 紳士の眼が、キラリと光った。

 「承知しました。御代は450円になりますが、よろしいですか。」

 助かった。なんとかなった。

 「お願いします。」

 「しばらくお待ちください。それとメニューは、まだご覧になりますか。」

慌てて頷いた。参考書は、これしかない。読んだことの無い参考書を片手に、やったことの無い科目のテストを受けるようなもの
だ。無駄とは感じつつもこれだけが頼りだった。

 「それでは…」

 紳士は笑みを零すと、カウンターに戻っていった。

 恐る恐るメニューを開いてみた。今までレモン、ミルク、ストレート、そのアイス、ホットを掛け合わせて6種類しか知らなかっ
た。しかし、そのものずばりというメニューは存在すらしない。それぞれの大きな括りの中にずらりと横文字が並んでいる。鷲頭と
て第一線のパイロット、英語にはそれなりの自信がある。しかし、その横文字の群れには全く通用しなかった。地名が多い、それだ
けはなんとなく理解できたが、それがどういう味かなど分かる筈も無い。せめてフルーティーだとか、甘口、辛口とか書いてくれる
といいのだが、それも無かった。

 コトリ…小さな音に気付き、顔を上げる。老紳士いやマスターだった。

 「お待たせしました。普通のでございます。」

 眼の前に置かれたティーカップからは、甘酸っぱいやさしい香りが漂っていた。

 「どうも…」

 とりあえず一口飲んでみる。レモンティーだった。甘ったるくはないが、しっかりと甘い味とやさしい香りが口の中を包んだ。風
邪をひいたときに親の入れてくれた紅茶を思い出す。思わず口からため息が抜けていった。

 「気に入っていただけましたか。」

 「はい。美味いです。」

 肩の力が抜けていた。そういうことだ。よくわからなくたって美味いものは美味い。それは確かだ。メニューと睨めっこしていた
自分が馬鹿らしくなった。もう一口飲んでみる。やはり美味かった。そしてやさしい香りがした。それで十分だと思えた。

 「ありがとうございます。ごゆっくり。」

 マスターは満足そうに一礼して去っていった。

 紅茶は美味かった。これが1000円もする紅茶だったら、感じ方も変わっただろう。こののんびりした気分は、450円の気分だっ
た。また何時でも飲める、何時でも帰ってこれる、そんな味だった。

 カラン、コロン、コロン…何度目かのドアベルが鳴った。慌てて顔を向ける。琴梨さんだった。すかさず立ち上がっていた自分
に、少し驚いている。チョコンと頭に乗っかったベレー帽がこちらに向けて傾く。マスターにも軽く会釈すると、こちらに歩いてく
る。

 「ごめんなさい。お待たせしちゃいましたね。」

 約束の時間まで、まだ5分近く残っていた。

 「いえ、少し早く着すぎてしまいまして。それよりも、今日はお時間を頂きましてありがとうございます。どうぞおかけくださ
い。」


 「ありがとうございます。」

 目の前の席に琴梨さんが付いた。その目線が困ったように逃げる。そう、それはそうだ。はっきり言って困って当然だ。

 「ご注文は、いかがしますか…」

 マスターだった。小鳥さんは、メニューを見て迷っていた。明らかに緊張している。よし、ここでセカンド・フラッ…。マスター
と眼が合った。その片目が閉じる。さすが、英国仕込み、なにか今までに感じたことの無い説得力があった。琴梨さんの顔が赤くな
っていた。

 「あの、ちょっと考えが…」

 マスターがこちらに軽く頷いてみせる。背中を押された感じだった。

 「それじゃあ、これと同じものをもう二つ下さい。」

 空になったカップを持ち上げて注文する。そう、このお茶なら今の小鳥さんにも効果がある筈だ。

 「承知しました。」

 マスターは空になったカップを受け取り、カウンターに消えていった。

 「落ち着いたら、またなんでも頼んでください。ホントの話、自衛官なんてお金を使う機会が滅多にないんです。こういう出費な
らうれしいくらいなんですから。」

 「すいません、ちょっと上がってしまって…」

 琴梨は、まだ俯きかげんだった。しばらく重い沈黙が訪れた。そこにいい香りが近づいてくる。二つのカップがテーブルに降り立
つ小さな音が、僅かに響いた。

 「お待たせしました。ごゆっくりどうぞ。」

 マスターは会釈すると、すぐに奥へ戻っていく。

 「あの、頂きますね。」

 緊張で喉が渇いていたのだろう。琴梨がカップに口を付けた。固唾を呑んでその姿を見つめる。鷲頭の研ぎ澄まされた神経が、コ
クンという小さな音を聞き分けた。つづいて微かにほーっと息を吐き出す音。

「あ、これ美味しいです。やさしい味ですね。」

 良かった。小鳥さんの顔に、あの朝、別れ際に見せてくれた自然な笑顔が戻ってきた。肩の力が抜ける。自分のカップにも口を付
けてみた。

 「あ、ほんとにいい香りですね…」

 思わず感想が零れた。先ほどの紅茶より甘さが押さえられ、その分香りが増しているような気がした。琴梨は、ちょっと首を傾げ
て見せた。

 「なんか、ホッとするやさしい香りです。私、これ知りませんでした。」

 「喜んで貰えました?それはよかった。あ、けどホッとすると言えば、あの朝の味噌汁は絶品でした。二日酔いの胃に染み渡るっ
て言うか、なんというか。本当にご馳走様でした。」

 琴梨はクスクスと声を立てて笑った。

 「いいえ、お粗末さまでした。絶品って、それ褒めすぎですよ。お酒のせいもあるかもしれませんけど。」

 「あ、あの時は大変ご迷惑をおかけしました。」

 「もう気にしないで下さい。お兄ちゃんが、なんか自殺しそうなほど気にしてるって言ってましたけど…けど、余り飲みすぎるの
は体にも良くないですよ。」

 ジンと来た。そうだ、酒は止めよう。次の瞬間、余市、夏のビール園(注2)が頭を過ぎった。うそはいけない。

 「はい。これからは控え目にします。あ、それより何か頼みませんか。」

 琴梨は両手を振った。

 「いいえ、こんな美味しい紅茶を頂いてなんだか悪いみたいです。あ、けど、出来ればこの紅茶の名前を教えていただけます
か。」

 ギクリ、そんな音がした。困った。マスターは他の接客をしている…

 「あの、普通のです。」

 「はい?普通のですか。」

 琴梨はキョトンとしていた。キョトンなんて音がこれほど似合う人は他にいないだろう。 しかし、感動している場合ではない。
困った…

 「その、マスターは普通のって言ってました。」

 琴梨は驚いたようなうれしそうなそんな顔をした。

 「凄いです!鷲頭さんは、常連さんなんですね。マスターのオリジナルが注文できるなんて!」

 琴梨はカップに口を付けるとまたうれしそうな顔をしていた。鷲頭の耳に「鷲頭さん」がリピート再生を続けていた。幸せだっ
た。

 「いえ、ぜんぜんそんなことは無いんですが。それより本当に何もよろしいんですか?遠慮しないでください。」

 グ〜。その時、腹の音がした。基地を早くに出ようと昼飯を抜いているのを忘れていた。時刻は7時を過ぎたばかり。よりにもよっ
てこんな時に…

 「ふふ。ここってカレーもおいしいんですよ。よろしかったら試してみてください。」

なんですと!カレー。鷲頭の空腹頭が、パブロフの犬のように反応した。

 「おいしいカレーとは、聞き捨てなりませんね。自衛官は、みんなカレーが大好物なんです。わが隊でも、最低週に1度カレーを食
べないと墜落するって信じられてるんです。じゃあ、マスター、カレー2つお願いします!」

 琴梨は驚いて両手を振った。

 「あの私は、いいですから。」

 「へ、小鳥さんはカレー、お嫌いなんですか…」

 鷲頭は始めに驚いたような顔をすると、ひどく残念そうな顔をした。なにか信じていたものに裏切られたような、そんな反応に琴
梨も申し訳ないような気分になってしまう。

 「じゃあ、少しだけいただきます。」

 カウンターの奥でマスターはカレーの準備を始めた。

 「すいません。なんか無理につき合わしちゃったみたいで。」

 そう言った鷲頭の眼は、期待に輝いていた。その鷲頭と琴梨の前に銀色の器に盛られたカレーと、ライスの盛られた皿が置かれ
る。

 「お待ちどうさまです。」

 「おわ。これですよね。このランプみたいな器!これぞカレーって感じです。いただきましょう。」

 そういいつつ、鷲頭は既にライスにカレーをかけ始めていた。

 「うむ。これはなかなか。う〜ん、美味いですね。正調喫茶店カレーって感じです。」

 唖然としつつ、琴梨も目の前に置かれたカレーの匂いに惹かれて行った。一口食べてみる。久しぶりのアッサムのカレーは、やは
りやさしい味がした。香りも味も段違いにすばらしいけれど、子供の頃大好きだったあのカレーだった。

 「あ、やっぱり美味しいです。」

 どんどん食べる鷲頭を見て、琴梨も釣られてスプーンを運ぶ。気が付くと琴梨もカレーをほとんど食べきっていた。鷲頭は満足そ
うに琴梨が食べるのを見ていた。

 「いや〜小鳥さんもカレーがお好きなみたいで、安心しました。」

 「ほんとに、私ちょっとだけって言ったのに、全部食べちゃいました。私、根が食いしん坊なんですよ。」

 琴梨は少し恥ずかしそうに言って、手を合わせた。

 「わかりますよ。いや、たくさん食べそうって訳じゃなくって。その、自分が好きじゃなくちゃやっぱり美味しくできないと思う
んですよ。メシなんて腹が膨れればいいって奴が、炊事当番になると大変なんです。」

 「なんか女の子としては、複雑な気分です。それ褒め言葉ですか?。」

 琴梨は、少しいたずらっぽく笑った。

 「褒め言葉も褒め言葉ですよ。そうだ。小鳥さんは、インドっぽいカレーもお好きですか?」

 「はい。あまり辛すぎなければ大丈夫ですけど。」

 「よかった。滝野の公園なんですけど、トラックの屋台で、本格的なカレーを出してるところがあるんです。晴れた日なんかは最
高ですよ。今度…」

 ピピッ…腕時計の小さな音がした。手首を覗いた琴梨は、申し訳なさそうな顔をしていた。

 「あの、そろそろ帰らないと…」

 鷲頭は慌てた。せっかくの時間をほとんどカレーの話で食ってしまった。

 「あ、すいません気付きませんで。あのこれ、ぜんぜんしょうもない物なんですが、お礼の印です。良かったら使ってくださ
い。」

 ほとんど空のディーバックをひっくり返す。転がり出てきたのは、携帯ストラップだ。それを琴梨の方に恐る恐る差し出す。スト
ラップに付いた203飛行隊のマスコット、ヒグマのフィギュア(注3)がぶらぶらと揺れる。静寂が当たりを包んだ。

春野は言った。「高いものは、琴梨ちゃんはびっくりして受け取ってくれない。こんくらい気安い物の方がいいんだ。」しかし、携
帯ストラップごときで本当に大丈夫なのか?

 「あ、これ、凄くかわいいです。ありがとう!」

 手を離すと、フィギュアは小さな二つの手の平に包まれていった。物に対してうらやましいと思ったのはこれが始めてだった。

 「私、パンダって大好きなんですよ。今度、ストラップ付け替えますね。」

 パンダ、やはりパンダだった。白地に耳と手足が黒のヒグマ、パンダなら目の周りが黒いのだが、パンダでない以上にヒグマにも
見えない…しかしこの際、彼はパンダだった。

 「これでそんなに喜んでいただけるなんて。あ、あの航空祭にいらしたら是非連絡してください。いろいろご案内しますよ。」

 笑顔で頷いてくれる。く〜、感動しつつ席を立つ。

 「ご馳走様でした。」

 マスターがレジを打った。

 「ありがとうございます。3150円になりますが、よろしいですか?」

 「お世話になりました。」

 鷲頭の後ろでは、琴梨が首を傾げていた。おかしなやりとりだった事に鷲頭が気付くのは、彼がこの店の常連と目されるようにな
ってから、その頃には、鷲頭も650円版(注4)「何時もの」の虜になっている訳だが、それはまだしばらく後の話になる。

(注1)アッザム:「機動戦士ガンダム」のジオン軍の巨大兵器(モビルアーマー)。ぱっと見はタマネギにしか見えない。筆者は
アッサム(紅茶の専門店)を訪れたことがなく、連想できたのはこんなものだった。

(注2)余市:ニッカウヰスキーの工場が存在する。ここの食堂のウニ丼は、余市に行ったら食べておきたい物の一つである。工場
には見学コースがあり、試飲も可能。

夏のビール園:やはり基本は、サッポロビール園だろう。ジンギスカンとビールに勝負をかける、冒頭で鷲頭が犯したようなミス
(暴飲・暴食)が起こりやすい場所である。しかし、そう考えると彼が反省しているのかどうか非常に疑わしい。

(注3)203飛行隊のマスコット:鷲頭、春野が所属するのは、千歳基地第二航空団203飛行隊。その創設20周年の記念にデザイ
ンされたのが、203の0部分に本編中に描写したようなパンダのようなヒグマが入ったマークだ。胸には赤い星のニプルマークが輝い
ており、文中では彼としたが案外女の子なのかも知れない。ちなみに千歳基地所属のもう一方の飛行隊、201はリアルなごついヒグ
マをマークにしている。

(注4)650円版:つまり鷲頭にしては2杯目の紅茶である。マスターが会計時にわざわざ「よろしいですか?」と聞いているのはこ
のため(450円x1+650円x2+カレー700x2で3150円なのだ)。450円版よりも茶葉が高級らしい。ただコンセプト的には喉が痛い
時の甘い紅茶であり、琴梨を覚えていたマスターが琴梨向けにバージョンアップしてくれたらしい。筆者は紅茶を飲む習慣が無く、
当然アッサムに行ったことも無い。紅茶=風邪というのは筆者の貧しいバックボーンによる。喫茶店にレギュラーの紅茶があったり
すると、この章は出だしから痛いことになる。店内およびメニューに関する描写は、当然USO800。

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