『3』


(……重い……体が……重い……。
 まるで、何かが自分を押しつぶそうとしているようだ)

 誠は、自分の体にかかる重みに、今までにない息苦しさを感じた。
 まるで、『あの時』のような、息苦しさを。

(そうか、俺は罰を受けているんだな……って……罰ってなんだよ)

 誠は、まどろみの中から、だんだんと覚醒し始めた。

(……夢……か)

 体は相変わらず重い。だが、鼻に流れ込む空気は、少し冷え、涼やかで気持ちがいい。
 それを思いきり吸い込もうとするが…

「うぐっ」

 腹がつかえてそれどころではなかった。しかも、鼻の辺りに、なにか
細い糸のようなものがかかってむずむずする。身動きもとれない。
 誠は、まだ眠い目を、少しずつ開けてみた。すると……

「おわっ!」

 誠の視界いっぱいに、水波の寝顔が広がった。

「くぴー……」

 水波は浴衣姿で、暢気そうに熟睡している。
 だが、その寝相は、誠の寝ているかけ布団の上に、まるで猫のようにまるまった形だっ
た。
 誠が重くて、しかも身動きがとれないのも当然である。
 水波がこのまま上半身を起して腕に膝を乗せれば、いわゆる「マウントポジション」だ
な、いやそんな事考えてる場合じゃ無い。ぐうぐうと眠りこける水波が、意図的にこんな
事をする訳がない。おそらくトイレに行った後、寝惚けて誠の上に倒れ込んだのだろう。
 やれやれ、と誠はひとつため息をつくと、自分にあてがわれた部屋……光基神社の母屋
の一室の端に置かれた時計に目を向けた。
 薄暗いが、それでも時刻ははっきりと分かる。
 四時五十五分。
 まだ、起きるには早い時間だ。
 だが、水波には起きてもらわないと困る。誠自身が眠れない。

「水波、こら、水波」

 誠は、水波に、軽く呼び掛けた。
 朝早いとあって、内緒話をするような、静かな声だ。
 その声に、

「ふんにゅ?」

 水波が、ぴくっ。……と反応した。
 そして、顔面をぐりぐりと布団に擦りつけて、こしこしこしこし、手で目を擦る。
 まるで猫である。
 その後、ぼけ、っと誠を薄目で見つめると、何か言った。

「んあ〜、まこと〜〜……だ〜〜〜」
「おう」
「……おはよございまふぁあ〜………むにゅむにゅ」
「あっ、こら、寝るな。自分の布団にいけ!」
「……むふふふ、お日様のにほひ〜〜……」
「水波、重いからどいてくれ」
「…まこと〜……むふふ、しっぽふりふりー」

 訳分からん。
 水波は、ぼけた目でポニーテールにした自分の長い髪の毛をふらふらと振って、満足し
たのかまた。ぽふ、と顔を下に落とした。
 だめだ。
 完全に寝惚けていて手がつけられない。
 またすやすやと寝息を立て出して、誠は心底困った。
 気持ち良さそうに眠る水波を見て、何だか無理やり起こすのも可哀相な
気がしていたのもあって、なかなか動けないでいた。

 と、そこに一人、陰が現れた。
 渡辺だ。彼は、ふああ、と欠伸をしながら、誠の部屋を通りがかった。
 そして、水波が入ってきて明け放したままの障子の隙間からこちらをちらりと見、獲物
を見つけた猫のような目でむふふ、と微笑んだ。

「あら、ええ格好やな。うらやましいでえ」
「冗談はよしてくださいよ」

 また内緒話をするような小さな声で語りあう。

「おおっと、敬語なんてヤボなもんはナシやで、誠くん。これから、ワイは、あんたの事
 を名前で呼ぶ。だから、あんたもワイの事、将人(まさと)って呼んでや」
「まさと……」
「ああ、『綱』ちゅうのは、襲名しただけや。本名やない」
「なるほど……」
「ま、そういうこっちゃから、これから、よろしゅう頼むわ。……昨日の事、きっちり水
 に流してくれるとありがたいんやけど」
「……ん、まあ。」
「よかった。ワイ、こういう性格やねん。悪かったな。……んじゃ、その子猫、ワイが担
 いで持っていったる」

そう言って、渡辺が入って行こうとした時……

「のわ!」

 渡辺の横に、またもう一人、人陰が現れた。咲耶である。
 彼女は、長い髪の毛を三つ編みにし、それを頭で器用にまとめてあった。
 咲耶は、ほけ、っと焦点の定まらない目で部屋を見渡すと、将人を無視して、中に入っ
て行った。
 そして……

「ふぎゃ」
「ぐえ」

 一度ずつ誠と水波を踏んづけると、誠の布団の横で、行儀良く正座した。
 そして、布団を両手でめくりあげて、もぞもぞと中に入り込んでしまった。

「わわわわっ」

 誠は、何とか布団から出ようともがく。その動きに、水波がぴくり、とまた反応した。

「ふあ〜、さくやさ〜ん? おはよございまふぅ」
「水波、お前、自分の布団に早く戻れ」
「うん、そうする〜」

 水波は、誠の上から、もぞもぞと四つん這いで降りる。
 誠がほっとしたのもつかの間。今度は水波までもが誠の布団に入り込ん
できた。

「わーーっ」

 誠は小さく叫ぶと、軽くなった布団から飛び出した。
 それを見て、将人が必死に笑いを堪えている。

「……あんさん、オモロすぎや……ぷぷぷ」
「寝床取られた身にもなってくださいよ」

 誠は、水波と咲耶に布団を掛け直して、廊下に出る。
 廊下のすぐ外にガラス窓。そこからは、神社の緑が、赤味がかった空に若葉を光らせて
美しく映えている。

「どこ行くんや。まだ起きるには早いで。」
「もう目が冴えてしまったから……ちょっと朝稽古にでも行ってこようかと」
「ははあ……、元気やな。ほな、ワイは、もうひと眠りさせてもらうわ」
「ああ、おやすみ」
「はいな〜。おやすみ〜」

 渡辺は、ふりふりと右手を振ると、一延びして自分の寝床へと帰って行った。

 誠は、そっと自分の部屋に戻ると、着替えを気付かれないように済まし、愛刀を持って
外に出た。
 外の空気は、緑の香りを伴って、涼やかに誠の体を撫でた。
 朝の空気を吸い込んで、辺りを見渡したそこに、一人、巫女の姿を見つけた。
 葛之葉 美姫であった。
 彼女は、境内近くの石畳を綺麗に掃き浄めている。

「おや……お早う。本当に早いな。朝稽古か?」
「ああ、はい、まあ、そんな所です」
「む、どうした?」
「いや、寝床を水波と咲耶さんに取られてしまって……」
「ほほう、いきなり二人を相手にするのは、疲れただろう?」
「……んな……何言ってるんですか!」
「ははは、冗談だ。おおかた、寝惚けて寝床を占領されたのだろう?」
「……からかわないでくださいよ……」
「すまんすまん。だが、朝稽古には、ちょうど良い時間だな。朝食の頃までには良い汗が
 かけるだろう。朝風呂を用意しよう。頑張ってくるといい」
「はい、ありがとうございます」

 ぺこり、と頭を下げる誠。それを見て、美姫が顎にしなやかな手をあてて見つめる。

「……ふむ、君は、まだ私に遠慮があるようだな。目上の者だからといって、そんな固く
 なる必要などない。……それとも、私が鬼だから、油断できないのかな?」
「……あ……いや、まさかそんな事はないですよ」

 誠は、その美姫の言葉にはっとした。
 鬼。
 確かに、美姫は鬼といった。
 第三種という鬼の種類がある事も分かっていたが、初めて意識すると、「鬼」というも
のについての認識を、誠は改めざるを得なくなる。
 光沢のある長い髪、白い肌、健康的な桃色の肌、黒い大きな瞳に、艶やかな唇。
 誠は、こんな美しい鬼など、見た事がなかった。
 しかも彼女は、人である蒼真 武の妻である。

「……いや、これは意地悪な質問だったな。悪気はない。許せ」
「いえ、ただ、美姫さんに言われて、改めて。そうなのか、と思っただけで……」
「気にする事はない。私はな、誠くん。我ら三種の鬼は、過去何らかの理由で、この地を
 離れ、彼の地へ渡った者の末裔だと考えている。だからこそ、三種と人の間には、新た
 な命が宿せる……。私は、この地に初めて来た時、言い様のない懐かしさを感じた。空
 気の香り、肌に当たる風、人々の声……全て記憶の中にあるようだった」
「鬼と人の歴史は……既に遠い昔に、交わっていた……と?」
「ああ。……しかし、これは私の願望でもある。……そうあって欲しい、という。……私
 はこの世界が好きだ。どんなに醜い争いをする者どもがあっても、愛する者と食卓を囲
 む時……私はその瞬間を、守りたいと思う」
「……。」
「綱らが己を殺して鬼を倒してきた理由も、そこにあるのだろうな。大義名分なぞ、彼等
 には似合わん」
「渡辺 綱という人は、何者なんですか?」
「彼の祖先は、平安の世から、鬼と戦い続けてきた《元祖鬼切り》と言える、いわば鬼殺
 しのプロだ。彼等は、源 頼光の配下であり、四天王、と呼ばれていた。綱は、その四
 天王の一人だ。もうあれから何千年も経つにもかかわらず、その血は絶えていない。そ
 の「名」を、「襲名」という形で、現世にまで残したのだ」
「……それで……名前が二つあるのか」
「鬼の殺し方については、彼等の方がよく知っている。私と武も、良く彼等に教えてもら
 う時があるくらいだからな」

 ここで誠は、ふと思った。

「最初は……恐ろしくありませんでしたか……彼等と共にある事を……」

 それに、柔らかに微笑みながら、美姫は語り始める。

「これはまた面白い事を言う。鬼が人を恐れたか、と。……私は、この世界に来る事を望
 んでいた。そうすべきである、と、祖先より教えられてきた。そしてこの世界に来、私
 はこの世界に暮らそうと決意した。もちろん、そこに身の危険がある事が分かっていて、
 だ。大変だったぞ……。彼等を……得に、武を口説くにはな」

 そこで、ふふふ、と照れ笑いをする。

「武さんと……戦ったんですか?」
「ああ、もう、数え切れないほど…な。そして、お互いに分かり合えた。その時ほど、嬉
 しかった事はない」

 少し遠い目をした美姫に、誠は、軽いカルチャーショックのようなものを受けていた。
 ……こういう「鬼」の形もあるのか、と。

「誠君。私は、君の心の中に、一体なにがあるのか、あえて聞きはせん。詮索もしない。
 だが、君はただ一つの存在であって、君の命は大勢の人間に支えられている。祖先から
 伝わるその名のごとく色褪せる事なく、そして、親からもらったその名のごとく生きよ。
 そうすれば、君は決して自分を忘れたりはしないだろう。生きる事は、決して容易な事
 ではない。だが、それを忘れない限り、人はまた新たな一歩を、逃げる事なく踏み出す
 事ができる」
「……はい」

 誠は、ただ黙って軽く頭を下げた。
 ……この人は、自分の想像もできないような苦難を味わっているはずだ。
 そんな気持ちが、誠のなかに、沸き上がっていた。

「さあ、もう行くといい。離れの小屋が道場になっている。そこに武がいるはずだ」
「え?」
「遊ばれてこい」
「分かりました」

 二人で穏やかに笑みを交わし合うと、誠は朝焼けの空の下、再び歩み始めた。
 そして。誠は、道場で武と対峙した。
 朝の道場からは、涼やかな風に、小鳥のさえずりが聞こえる中、爽やかな竹刀の音が、
森に響き渡った。

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