第1章〜鬼の棲む世と鬼切と〜

 

『1』

 風が鳴いた。

 春にしては冷たい大地の息吹に、男はただ身を硬くして歩き続ける。
 だが、その足取りは、お世辞にも確かなものではない。顔には赤みがさし、一目見て酒
に飲まれている事が分かった。

 少々ハメを外しすぎたか。

 そう男は一人ごち、もうすっかりと暮れた村の土くれた道を踊るように歩き続ける。
 もう季節は4月を終えようとしているにも関わらず、男の体には酔いを覚ませと言わん
ばかりに息吹が吹き付ける。

 男はそれを煩わしくひとつ身震いすると、そのまま、自分が今降りてきた石段を見上げ
て酒の余韻に浸り直した。

 あんなに奇麗に咲く桜に、酒の一つも無いんじゃ可愛そうだよなあ。

 男はそう言い、ふう、と息を大きく吐き出した。彼が見上げた石段には、登る直前より、
たくさんの花びらのざわめきに歓迎される。
 そして、その段の頂点には、ひときわ目立つ、赤みの強い桜が、まるでその一帯を仕切
るかのように座していた。
 その赤みは、その丘にある鳥居よりも赤く、妖艶に色づいていた。

 その赤い丘の上に、ひときわ大きな月が差し掛かったとき、男は我が目を疑った。

 女がいた。

 月明りに反射されたその白い肌は、まるで真っさらの和紙のように白く、着ているのは、
これもまた無垢を思わせる白い着物だった。
 そして、その頂点からは、そこに墨で線を引いたかのように、長く、美しく、そして艶
やかな髪の毛が、風の中になびいていた。

 男は、まるで憑かれたかのように、ふらふらとそこに近づいた。
 が、女はその男の姿にまるで悲しむかのように眉を寄せると、そのまま紅の桜の影へと
姿を消した。

 男は、女に魅了されたがごとく石段を登り、そして紅の桜に近づいた。
 そこで男は一つの変化に気がつく。

 桜が散り始めている。まるで、男が近づく事を拒むかのごとく。
 その様にただただ目を奪われていた男は、そこに起こり始めた大気の動きには、全く気
が付く事がなかった。

 そして

 また、風が鳴いた。

 桜の花びらが漆黒の空を舞い、月明りに映え・・・。

 男が消えた。

 アルコール臭の染み込んだ酒瓶だけが、そこに残された。それを足元に見つめながら、
先ほどの女が紅の桜に寄りそう。

「また……ひとり……」

 女は、黒い髪を風に揺らしながら、そう呟く。その顔は、まるで身を切ったような、苦
悩の表情に満ちていた。

 


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