鬼切役奇譚 第四章 〜紅桜と鬼切と〜

『1』



「咲耶、咲耶」

 どこからか、自分を呼ぶ声がする。
 桜の木々の間を走り回っていた少女は、その声の方向に、元気にその声の方向に向かっ
て走り出す。
 そこには、淡い桃色の着物に身を包んだ女性が、静かに佇んでいた。
 彼女のいるその場所は、小真神社には違い無いが、その周りは開発されておらず、むき
出しの土で、少女の着物の裾が汚れてしまう。

「お母様〜」

 咲耶と呼ばれた少女は、満面の笑みをたたえて、その女性に飛び込んでいく。
 その女性は、二十代後半と見え、若々しい美しさがある。しかし、その顔は血の気が失
せたかのように青白かった。

「あらあら。元気な子ね。でも、あまりここから遠くに行ってはだめよ。あなたは、ここ
 から離れては生きていけないのだから。」
「どういうこと? お母様。わたし、ここから離れたらしんでしまうの?」

 咲耶は、細い首を、ちょこんと横に曲げて、まっすぐに母を見つめる。
 咲耶の母は、静かに首を横に振る。

「そうじゃないわ。あなたがここから離れても、すぐに死んでしまう事はないわ。でもね、
 あなたの体には、自然の『気』をいつも取り入れていないと、いつか体が弱ってしまう
 の」

 そこで、咲耶の母は、咲耶の艶やかな黒髪をやさしく撫でる。

「だから、咲耶、あなたは、ここから出ないで、ここで静かに、穏やかに暮らしなさい」

 咲耶は、うん、とにこやかに、元気に頷いた。

「ごめんなさいね、咲耶……。あなたがこんな体になってしまったのも、私のせい……。
 私が、もっと元気で、『こちら』でも不自由なく生きていける体であれば、もっとあな
 たに、いろいろな素晴しいものを見せてあげられるのに」
「お母様、泣いてるの? なにかかなしいの? わたし、なにかした?」
「違うわ…。あなたは優しい子ね、咲耶。あなたのせいじゃないのよ。これは……運命な
 の。人を愛してしまった……私の運命なのよ……」

 咲耶の母は、咲耶を胸に抱いたまま、ある一つの古ぼけた桜の木を指差した。

「咲耶、あの桜の木をごらんなさい。そう、あの奇妙にねじ曲がった、あの古い桜の木を」
「……? あれが、どうかしたの? お母様」
「あの桜の木はね、私が、お父様と一緒になった時に、私とともに、ここに【来た】桜の
 木なの。でもね、あの桜には、奇妙な言い伝えもあってね。でも、そんなのは、あなた
 は気にしなくてもいいのよ。……私達を……私と、お父様と、そして咲耶、あなたをず
 っと見守ってくれる、優しい桜の木なのだから」
「ふ〜ん、じゃあ、咲耶のおともだちだね!」
「そうね、お友達ね。仲良くしてあげてね、咲耶」
「うん!わたし、あの桜の木のおせわしてあげる! そしたら、きれいな花をさかせてく
 れるかしら?」
「そうね、あなたが大切にしてあげれば、あの桜も、とても喜ぶわ。……お父様も、褒め
 てくださるわよ」
「ほんと〜!」
「ええ。
 さ、お父様の所にいきましょうか。お薬の時間だから」
「お母様も、お注射の時間だね。……ねえねえ、いたくないの?」
「あなたの笑顔が見られるなら、私は何も苦しくないわ。
 ……ここに来て、私はいろいろな事があったけれど……でも、それでも幸せなのは、お
 父様に出会えた事と、咲耶、あなたを授かった事よ」
「そうそう、お母様、娘は、だいじにしなきゃだめなのよ」
「あらあら、おませさんね」
「ねえねえ、お母様、その、言い伝えって、どんなのなの?」
「聞きたい?咲耶」
「うん!!」
「……それはね……」

 二人の親子は、手をつないで、仲良く桜並木の中を、歩いていく。
 ……そこに、一人の男が現われた。
 それを見て、咲耶の瞳が、ぱっと輝く。

「お父様〜」

 咲耶は、母の元から、元気に父の元へとかけていった。
 そして、父親が、優しく咲耶を抱え上げた瞬間、父親の顔がこわばった。
 その表情をいぶかしんだ咲耶が、父の目線を追って、後ろを振り向く。
 そこには、倒れ、胸を抑えて苦しそうに呻く、母親の姿があった。

「お……お母様〜〜!」

 咲耶と彼女の父親は、慌てて母親の元に駆けつける。
 母親は、咲耶の父親に抱き起こされるが、苦しい息は、収まりそうにない。

「大丈夫か!少しだけ我慢していろ。すぐに、医療室に運んでやるからな!」
「……あなた……私は……もう長くないのかもしれませんね」

「何を言う!お前と私、そして咲耶の3人で、ここで静かに暮らしていこうと決めたじゃ
 ないか!……お前達が喜んでくれるならと…私は、村の者達と協力して、桜の木々を植
 えたんだ。おまえは…まだあの桜が花咲く瞬間を、まだ一度も見ていないじゃないか。
 ……頑張れ、まだ……まだお前は生きていられる!」
「優しいんですね……」

 そこで、咲耶の母は、悲しそうな笑みを自分の夫に向けながら、呟くように言う。

「あなたは…私の体がどうなっているか……全て知っているはずなのに……私は……やは
 りこの世界には受け入れてもらえないのかしら……」

 その言葉に、咲耶の父は、今にも泣きそうな、苦汁の表情を作る。
 そんな夫の顔に、優しく手を触れながら、咲耶の母は、咲耶の方に振り返る。

「咲耶……」
「なあに? お母様」
「あなたは、この世界にとって、とっても奇異な存在……。いろいろな苦労があるかもし
 れません。……でもね、あなたには、どんな事があっても、生きて欲しいの。たとえ、
 石を投げられても、たとえ、自分を誰も認めてくれなくても、それでも……あなたを受
 け入れてくれる人が現われるまで……歯を食いしばって生き抜いて…」
「……? お母様? 何をいってるの? さくやには、わかんないよ」

 咲耶の母は、また苦しそうに胸を押さえ、呼吸は、一層激しさを増した。

「……いかん! さあ、行こう、すぐに私が直してやるからな!」

 咲耶の父は、自分の妻を抱きかかえると、そのまま走り出した。その先には、鉄筋でで
きた、白い建物があった。
 咲耶達親子は、この建物を、『白い家』と呼んでいた。
 咲耶は、外に、チューブがたくさん這っている、この『白い家』が嫌いだった。
 そこに、自分の両親は、入っていこうとしていた。
 咲耶は、いい知れぬ不安と寂しさに襲われて、急いで両親の方に向かって駆け出した。

 ……そして……

 咲耶の母が亡くなった。
 表向きは、心筋梗塞、という事だった。
 しかし、咲耶には、それが間違いであるような気がしていた。
 
 お父様は、うそをついている、と。

 母親が死んでから、咲耶の父は、変わってしまったように思えた。

 相変わらず、咲耶の前では、優しい笑みを絶やさず、いつも頭を撫でて、その腕に抱い
てくれた。
 しかし、いつも、少なくとも一度は、桜並木に身をゆだねて、自然の空気を吸っていた
父が、最近めっきり外に姿を見せなくなったのだ。

 ある日、咲耶が眠たい目をこすって、夜遅くお手洗いに行こうとすると、深夜にもかか
わらず、父は外に出て行こうとしていた。

「どこかにおでかけなの? お父様」
「ああ、咲耶か。うん、お父さんは、ちょっとあの『白い家』に行ってくる」
「でも……もう夜も遅いし、お父様も、休んでね」
「咲耶は、本当に優しい子だね。でも、大丈夫。お父さんはこんな事で、病気になったり
 しないよ」
「……でも」
「さ、早くお部屋で休みなさい。すぐに戻ってくるからね」

 咲耶は、うん、と頷くと、お手洗いをすませて、一人部屋に戻った。
 ……しかし、いつまでたっても、父は戻ってこなかった。
 夜、咲耶は、寂しく一人で布団にくるまっているしかなかった。

 次の日も、また次の日も。
 咲耶の父は、どこかに出かけて帰ってこなかった。
 咲耶は、そんな父に、確かな変貌を感じるようになっていた。

 咲耶は、一念発起し、外に出て行く父を追いかける事にした。
 でも、物凄く眠い。咲耶にとっては、もう熟睡している時間だ。
 咲耶は、目をこしこしとこすりながら、父の後を追った。
 そして……父は、あの『白い家』に入っていこうとしていた。
 咲耶は、少し悪寒と寒気を感じ、足を止めてしまった。

 ……行きたくない……

 そんな気持ちが、咲耶の心を支配する。しかし、父親は、その建物に平気で入っていこ
うとしていた。
 咲耶は、歯を食いしばって、一生懸命、白い家に向かって歩いた。
 父が、『白い家』に入っていく。咲耶が、そっと近づく。しかし、咲耶が『白い家』の
ドアノブに手をかけたとき、咲耶は、残念と安心が入り交じったような表情をした。
 入り口のドアには、鍵がかかっていたのだ。
 咲耶は、これ以上の深追いをするつもりはなかった。
 その場を、急いで走り去ろうとしたその時、建物の裏手が、ぼうっと、淡く光っている
のが目に入った。
 咲耶は、迷った。好奇心はある。だが、これ以上は、何故か見たくないという気持ちも
ある。
 そうやって、数十秒悩んだ後、咲耶はその光りの方向へ、抜き足差し足で近づいていっ
た。
 そして、ガラス窓を、うんと背伸びしながら覗き込んだ……。


←第三章『20』に戻る。 『2』に進む→
↑小説のトップに戻る。