『2』



 そこには、パソコンが並んでいた。
 咲耶には、『光る箱』程度にしか分からない。
 しかし、それが、ただの箱ではない事くらいは分かった。
 ふと、咲耶は、手をかけていた桟に違和感を感じる。そのガラス戸をそっと押してみる
と……

 からから

「あ……開いちゃった……」

 音をたてて、ガラス戸が開いてしまった。鍵がかかっていなかったのだ。
 咲耶は、一生懸命懸垂して、桟を乗り越えると、パソコンの並ぶ部屋に転がるようにし
て入り込んだ。
 そして、ネグリジェについた埃を払い、いそいそと自分の靴を脱いで、片手に持つ。パ
ソコンは、カリカリ、と、不気味なシーク音を奏でながら、呻き声のようなファンの音を
咲耶に向けて放っているようだった。
 咲耶は、その光る箱に、言いようのない不気味さを感じて、ぴたぴたと裸足でその部屋
を出ていく。
 しかし、『白い家』の中は、真っ暗。どこを見ても、何があるのか分からない。
 たまに、何かのもの音を聞く度に、咲耶は、びくっと肩をすぼめ、涙目できょときょと
としている。
 咲耶がここに来てしまった事を、ちょっと後悔し始めたその時、進んだ廊下の先に、落
し穴のような窪みを見つけた。それは、まるで、床板をはずされたような格好で、地下に
暗闇を作っていた。
 咲耶が覗き込むと、階段があり、下に降りられるようになっている。
 ひとつ、唾を飲み込むと、咲耶はその階段を降りていった。
 後ろに広がる暗闇に、まるで背中を押されているかのように。吸い込まれるように。
 ぴたぴたと、足音をたてて、階段を降り切ると、また、廊下が広かっていた。
 その一角が、明るく輝いていた。

「電気ついてる……」

 咲耶は、一瞬目を細めたものの、そこに明らかに人の気配を感じて、ぱっと目を輝かせ
た。

 お父様がいる。

 咲耶は、足速に廊下を駆けていった。
 ……しかし、そこに、もう一つ、声を聞いて、咲耶は歩みを止めた。
 いや、恐怖で歩く事すらできなくなったのだ。
 その声は、声というには余りにもおぞましいものであった。
 ……呻き声、叫び声、喘ぎ声……
 そんな声が入り交じったような、不気味な声。

「お……お父様……」

 咲耶は、そうつぶやくと、そろそろと、明るくともされた部屋に近づき、中を覗き込ん
だ。

 そして……

『っ…………!!!』

 咲耶は、ショックで、叫び声もあげられなかった。
 その中の光景を凝視したまま、動けない。目から涙があふれてくる。
 必死で、口に手をあてたまま、ぶるぶると体を震わせる。

 そこにあったのは、人と思えないような、異形の「もの」が、うごめいていたのである。
 そして、その中央に……父。
 異形の「もの」は、父を襲おうとはしない。ただ所在なげに、まわりをうろうろとして
いた。

「怖いかい……?」

『………!!』

 咲耶は、一瞬、それが自分に向けられた言葉かと思った。しかし、父の視線はある一点
に注がれていた。
 咲耶がその方を見上げると…

『……!!!!』

 咲耶は、また声を失った。
 そこにあったのは……母。
 白い血の気の失せた顔を傾けて、体は、何かの機械に埋っている。
 その機械の全面はガラスばりになっており、何かの液体が満たされている。
 咲耶の母は、まるで、その中に浮かんでいるかのようだった。
 咲耶の母は、あの時の美しさを保ったまま、妖艶に明りに映えていた。
 それを見ながら、咲耶の父が語りかける。

「大丈夫だよ。もうすぐ、お前の体は、もとに戻る。それも、あのときよりも丈夫な体で
 だ。あるお方達が……私に力添えをしてくださるそうだ。……なぜ……お前や咲耶が…
 …こんな不幸にあわねばならない。私達は、ただ幸せになりたかっただけなのに。お前
 が鬼だった……ただそれだけで、何故咲耶まで白い目で見られねばならなかったのだ。
 ……このような世の中は……愛しあう者達が、愛しあえないような世の中なら……二人
 で変えよう……いや……咲耶と、親子四人で………この理不尽な世界を変えていこう…
 …そして、また幸せになろう……」

 ここで、父の表情が、歪む。

「そして……そのためには、大きな力が必要だ。鬼にも傷つけられないような……大きな
 力が!!最終的には、世界じゅうに歪みを作り……鬼と人の世界を一つにさせる。そう
 すれば……もう、おまえと私との愛を拒むような、理不尽な世界はなくなるんだよ!!
 ああ、楽しみだよ! ……そうか君も楽しみか、真緒!!!」

 父は、変わってしまった。咲耶は、改めて、それを認識した。
 父は、にこにこと、設備に近づくと、近くのパソコンを打ち始める。
 すると、機械が音をたてて、動き始めたかと思うと、母親の目が開いた。
 しかし、すぐに気を失ったかのように目を閉じてしまう。
 咲耶は、もう見てはいられなかった。

「……ああ、そうそう、お前のお腹の子供は、ちゃんと無事だったよ……。元気な男の子
 になるぞ。お前と私の息子…そして、咲耶の弟だ。お前と同じ、淡い茶色がかった髪の
 毛が、とても美しい子供だよ。……だが、今、私のそばに置く訳にはいかないからな。
 ある程度たったら、咲耶とともに、里子に出そうと思っている。そして、全てが終わっ
 たら……また、家族水いらずで暮らそう……。」

 咲耶は、そこを、よろよろと離れた。
 ……もう、あの時の幸せは望むべくもないと思ったからだ。
 そのまま階段を登ろうとした時、

 かたん。

 何かを蹴ってしまった。おそらくは、廃材などがあったのだろう。

「誰だ!!」

 その音に父が反応する。
 そして、どし、どし、と、あの異形の「もの」が、部屋から出て来ようとしていた。

「!??!!!?!?!」

 咲耶は、声にならない悲鳴を上げながら、必死で階段をかけ上がった。
 そして、今来た廊下を、息をあらげながら戻り、パソコンの部屋まで逃げ込んだ。

「ちっ……逃がしたか……まあ、いい。おい、行け」

 異形の「もの」は、父のいた部屋を出ると、咲耶を追って、階段をかけ登ってきた。
 咲耶は、パソコン部屋に逃げ込んで、静かに戸を閉める。
 そして、パソコンの明りを元に、咲耶は靴を履こうとする。が、手が震えてなかなか履
く事ができない。
 そんな事をしている内に、あの気味の悪い呻き声を上げながら、異形のものが部屋の近
くまで近づいていた。
 そして、パソコン部屋の前で、その足音が止まる。
 咲耶は、叫びそうになるのを手を口に当てて必至にこらえて、パソコンの陰に隠れる。
 息が荒くなる。苦しい。
 異形の足音は、咲耶のいるパソコン部屋を通りすぎて、向こうに行ってしまった気がし
 た。……しかし。

 どんどんどんどん!!!

 大きな音と共に、次の瞬間、パソコン部屋のドアが吹き飛んだ。
 まるでフリスビーのように回転しながら、咲耶の横をかすめて、近くの壁にめり込んだ。

「ひっ……」

 咲耶の声に、異形が反応する。
 咲耶は、泣きながらパソコンの陰から飛び出して、自分が開けた窓に飛びつく。
 それを見つけた異形が、それを小走りに追いかけて捕まえようとする。
 間一髪。
 咲耶は、窓から外に転げ落ちた。
 前には、暗闇が広がっている。淡く月夜に照らされて、道が見えている。
 咲耶はそのまま、息を荒げて元来た道を必死で走る。しかし、いくら必死に走っても、
異形の方が早さは上だ。
 あっという間に咲耶に追い付いてしまう。
 すぐ後ろの暗闇から、異形の息づかいが聞こえる。咲耶は、ぽろぽろと大粒の涙を流し
ながら、一生懸命足を前に出す。
 だが、どんどん異形が近づいてくる。そして、咲耶の背中で、急に風が吹いた。
 えっ、と咲耶が後ろを振り返ると、すぐ側に、あの恐ろしい顔と爪があった。
 そして、その額には、一本の大きな白い角。

「きゃあああ!!」

 咲耶が喚きながら道を走る。
 幾重にも重なった桜の木々が、咲耶の視界を、ものすごいスピードで通りすぎる。
 その後ろを、再び異形の爪がかすめる。
 咲耶は、その勢いに躓いて、道を外れて桜の木々の間を転げ落ちる。
 そのまま桜の木々をかいくぐって、訳も分からず逃げる。
 すぐ後ろから、桜の木々をなぎ倒して、黒い陰が迫る。咲耶は、もう自分が何処を逃げ
ているのか分からない。

 そして……

 咲耶は、見たことのある場所に出た。
 母と一緒に遊びにきた、あの社だ。そしてそこには、奇妙に歪んだ桜の古木が一本、
静かに佇んでいた。
 咲耶は、その桜の古木に引き寄せられるように近づいていった。
 そして、桜の木々にそっと手を触れる。すると、まるで古木が震えたような気がした。
 そうやって不思議な気分に浸ってしまった咲耶だったが、自分の置かれた状況を思い出
して、すぐに逃げ出そうとした。
 しかし。
 社の後ろ側、そして、階段の下からも、あの恐ろしい呻き声が聞こえてくる。
 咲耶は、自分の退路を断たれた事を理解した。
 異形が、咲耶を見つけて大きく吠える。その声に驚いて、鳥達が夜空に舞い上がる。
 咲耶は、そこに尻餅をついて、動けなくなってしまった。
 何匹もの異形は、飛び立つ黒い陰を背に、白い角を怪しく光らせて咲耶に迫る。
 咲耶は、もう目も開けていられない。
 そして、咲耶の頭を、その異形が和し掴みにしようとしたその時、声にならない悲鳴を
上げた咲耶の咲耶の後ろから、突風が幾重にも吹いたかと思うと異形を吹き飛ばした。

「え……?」

 咲耶が、恐る恐る目を開けると、自分の周りに、幾重にも、木の幹のようなものが、ま
るで動物のように、咲耶の周りを浮遊していた。
 異形は、その木の幹に怒りをぶつけるかのように突進していく。

「ひぃっ……!!」

 咲耶は、恐怖に顔を覆い隠して、古木の根元で丸くなって震えている。
 その異形に向かって、また木の幹が槍のように真直ぐに向かっていく。
 まるで、意思を持ったかのようだ。
 そして、木の幹が、異形のひとつを差し貫いた。
 異形が、大きな叫び声を上げて、苦しみを表現する。しかし、木の幹は、それを意に解
さないかのように無視して、ざぁっと震えた。
 すると、あっという間に異形は痩せこけて、ついにはミイラ化し、土のようにその場に
ぼろぼろと崩れ落ちた。
 咲耶は、その光景に目を見張った。信じられなかった。
 仲間をやられて怒りを爆発させたか、その幹に、異形が掴みかかる。
 しかし、幹は、それすらも意に解さないかのように、異形を次々にその幹に巻き込むと、
その体から、まるで何かを吸い出すかのように幹を震わせる。
 すると、また先ほどと同じように、異形はまるで土くれのようにぼろぼろとその場に崩
れ落ちた。

 ……咲耶はその時、母が……真緒が教えてくれた、あの「言い伝え」を思い出した。

『紅桜は魔性の桜
 紅桜は血吸いの桜
 魔性の色は人を呼び、魔性の匂いは妖(あやかし)呼ぶ
 妖流したる人の血が
 桜の花の糧となり、紅桜の花ひらく
 紅桜は魔性の桜
 紅桜は魔性の森の道標(みちしるべ)
 踏み込むものを魔性に誘い、桜は血色に花ひらく……』

 咲耶がその言い伝えを思い出している最中にも、何匹かの異形が幹に絡め取られ、土く
れのようにされていた。
 ……そして、異形は全て姿を消した。

 咲耶は、鬼がいなくなった時、今までとは、少し違う雰囲気を感じた。
 そして、ふらふらと立ち上がり、古木の方を見て、唖然とした。

 桜の花が咲いていた。
 母が見たかった桜……父が母に見せたかった桜……。それが、今、咲耶の目の前で、満
開に咲き誇っていた。
 風が吹くと、桜の花びらが、咲耶の頬を撫でる。
 その咲耶の周りを、木の幹が、幾重にも巡る。まるで、咲耶を守るかのように。
 咲耶は、自分でも何故だかわからないが、古木に向かって話しかけていた。

「だめだよ。こわいことしたらだめなの。お母様が、いっつも、やさしくしなきゃだめだ
 って、いってたの」

 それに答えたかどうかは分からないが、古木が震えたかと思うと、木の幹が咲耶の傍か
ら、するすると離れて、そして地面の中へと消えてしまった。

 ……それから咲耶は、一人とぼとぼと家に帰った。
 何故か、恐くなかった。あの恐い化け物が出てきても、何故か、大丈夫な気がしていた。
 そして、その次の日の朝。
 咲耶の父が、失踪した。
 理由は誰も分からない。手紙も残っていない。
 ただ分かる事は、咲耶の父が、咲耶をおいたまま、白い家の研究結果を、レポートや資
材もろとも持ち去っていた事だ。
 咲耶は、父が予め用意していた里親のもとに引き取られた。
 里親は、咲耶を理解し、優しく接し、本当の娘のように可愛がってくれた。
 半年に一度は、母親の墓参りにも連れて行ってくれた。

 そして、それから十年。
 咲耶は、二十歳の大変美しい女性に成長し、自分の故郷に帰ってきた。
 自分を助けてくれたあの桜は、今も村のシンボルとして、村を賑わせていた。
 父が、村の人と力を合わせて植えた桜の木々も、満開に咲き誇っていた。
 ……そして、咲耶の力も、開花していた。
 植物を操る力。
 それを使って、いくつもの鬼を撃退した。
 だが、父の姿は見えない。いや、この村にいる。だが、もう【あれ】は父ではない。

 咲耶は、誠の顔をじっと見つめていた。
 あの夜、自分と出会った時、あの桜の古木は、彼等二人に全く何の反応も示さなかった。
 咲耶と共にいる事を、許したかのように。

「ん〜? 咲耶さん、どうしたの?」

 横あいから、ぴょこっと水波が現れ、声をかけてくる。
 そう言えば、紅桜は、水波がばしばしと木を叩きまくっていたにも関わらず、一切反応
しなかった。
 不思議な人達……。
咲耶は、ふと、そんな事を思った。

「ん……何でもありませんわ。ちょっと光基神社って、どんな所かなと思ったもので」
「ん〜、変な人がいるよ、ねー、まことっ」
「変な人って……お前、それ撚光さんの近くで言うなよ。物凄く落ち込むから」
「ぶぶ〜。誰も撚光おじさんの事言ってないよ〜。変なのは、誠だもーん」
「お前なあ〜」
「きゃははは」
「……やっぱり、誠がいると、ラクができていいや。なあ、咲耶さん」

 そう言ったのは、陽だ。

 咲耶は、彼らを見ながら、母が、死のまぎわに言い残した言葉を思い出した。

『たとえ、石を投げられても、たとえ、自分を誰も認めてくれなくても、
 それでも……あなたを受け入れてくれる人が現われるまで……歯を食いしばって生き抜
 いて……』

(……お母さま……私は… …生きてますか? お母さまが、言い残したように……)

 そして、誠を見つめた時、再び母の言葉が脳裏をよぎった。

『……あなたを受け入れてくれる人達が現われるまで……』

 咲耶は、穏やかに微笑みながら、誠達と共に歩いた。
 父のしている事は、止めなければいけない。でも。
 今は、この人達と歩いていこう。いずれ、父と対峙する、その時まで……。

 桜の木々は、道行く彼等を守るかのように、満開の花々で彼等を覆っていた。


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