『7』


 天水村は、まだ東の空に赤味を帯びた静けさの中にあった。
 東京で火と悲鳴があがるその時も、その村の端にある一生の家を覆う山肌は、まだ同じ
静けさ中であった。

 つんつん。

(何だ?)

 つんつんつん。

(何だよ……鬱陶しいな……)

つんつんつんつん。

(………………。)

つんつんつんつんつんつんつんつん。

(………………………………。)

つんつんつんつんつんつんつんつんつんつんつんつん。

「だあーーっ! 分かった分かったよ! 起きますって!」

 思いきりベッドから起き上がった陽は、眉間に皺を寄せてきょろきょろと辺りを見渡す。
 するとそこには、相変わらず無表情な瞳で、じっと陽を見つめる奈々美の姿があった。

「うぉっ」
「……あ、気がついた」
「あ、気がついた、じゃねえだろ。何やってるんだ?」
「陽を起こしてたの」

 そういう奈々美は、薄く、白いネグリジェが太腿までまくれ上がったまま、ぺたん、と
座り込んでいた。
 ただすぽっとネグリジェを頭からかぶっただけなのか、胸元も、だらしなく開いている。

「……あーもう、お前ってヤツは……」

陽は、乱れた奈々美のネグリジェを整えて、ボタンを留めてやる。

「……ありがとう」
「ありがとう、じゃねえだろ。まったく……」

 奈々美の服を整えてやりながら、俺はこいつの兄貴でもないのに、などと、どうでもい
い事をぼんやりと考える陽。
 何だか良く分かってない奈々美は、きょとん、と陽を見つめている。

「で、なんでお前が起こしに来たんだ?」
「ずっとここにいたから」
「……あ、そうだった……」

 奈々美は、夜のうちに陽の部屋に忍び込んで、ごそごそと寝床に入り込んで寝てしまっ
たのだ。

「いきなり頭ぶつけて気を失うから、びっくりした……」
「びっくりしたのはこっちだ……」

 何だか非常に寝覚めの悪さを感じながら、それでも陽はなんとかベッドから起き上がる。
 そして、部屋を見渡して、再び気分が悪くなった。
 陽の部屋はには、アンチ・ナノマシンとも言えるような、ナノマシン無効化システムが
組み込まれているのだそうだ。
 昨日、それをイヤという程思い知らされて、陽は観念してしまったのだ。

「ちっ……暮らしやすい牢獄、って感じだな」

 そこで、ふと、奈々美が陽の部屋に不自由なく入り込んで来たのを思い出して、奈々美
と一緒なら、抜け出せるかと思い、奈々美に打ち明けてみた。
 だが。

「だめ。陽が扉や壁に近づいただけで、ナノマシンの効力が発揮されるの。そういうふう
 にできてるの。外から入ってくるのはできるんだけど……」
「……だめかあ〜〜……ふん!!」

 がん!

「ぐああ…………いてええええっ……」

 右手を押さえてごろごろ転げ回る陽。

「……なにしてるの?」
「いや、何って……いつもの調子で、ここをガツーン、と壊せないかなあ、なんて……」
「だからだめだって言ったのに……」
「くそ……昨日は、床も一発だったのに……」

 ナノマシンの力を借りられない陽は、ごく普通の青年と変わる事はない。
 かなりの格闘戦術と、戦略、及びゲリラ、トラップ戦術の英才教育を受けてはいるのだ
が……。

「……それも、ここじゃあ宝の持ち腐れか……」

 ふと、ベッドの脇を見ると、ぱっくりとチューリップ型に銃口が開いた陽の愛銃が、ぽ
つん、とインテリアよろしく置かれていた。
 これも、もう使い物にはならないようだ。
 今の所、陽は、その爪と牙の全てを封じられた状態にあった。
 ふう、とため息をついてあぐらをかいた陽の頭上から、声がした。

『やあ、おはよう、陽。どうだ、よく眠れたか』
「うわわっ! なんだ!」

 穏やかで優しい声がいきなり聞こえて驚いたが、一発で声の主が分かり陽は渋い顔をす
る。

「ああ、添い寝までしてくれた奴がいたんでね。寝心地は最高だったぜ」
『ほう、もうそこまで仲良くなったのか。結構なことだ。しかし、血は全く繋がってはい
 ないが、それでも義理の妹だ。あまり変な気は起こさず、しっかり可愛がってやるんだ
 ぞ』

 減らず口を憎まれ口で返されて、ますます陽は渋い顔になる。

『さて、朝食の用意をした。まあ、男の料理だが、栄養には気を配ったつもりだ。この部
 屋を出て、そのまま左に進むといい』

 部屋の扉の錠が、ゆっくりと解除される音がした。
 陽としてはこのまま逃げてやろうか、とも考えたのだが、何となく奈々美の今後が気に
なって、ここは従う事にする。
 陽は、昨日の奈々美の現状を知った瞬間から、彼女を必ずここから連れ出す決意を固め
ていた。
 しかし、どうするべきか。
 陽は攻撃手段のほぼ全てを失っている。強行手段に出ても、おそらく一生は奈々美を操
って、陽の阻止に出るだろう。
 陽としては、それだけは避けたい。

(とりあえず、一生のクソオヤジの出方を見るとするか……)

 陽はそう考え、言われた通りに、通路をだらだら左に歩いて行った。

 通路……といっても、そこは家の中と全く変わらない。
 モスグリーンのじゅうたんが敷き詰められた通路、壁は淡いベージュに統一されており、
なかなか落ち着いている。

「何だか、秘密のアジト……って言うには程遠い室内デザインだな……」

 奈々美を担いで走って逃げたら大丈夫なんじゃないか、と思えるくらいに落ち着いてい
る室内に、少し陽は拍子抜けしていた。
 廊下は突き当たりで行き止まりになっており、そこで奈々美に
靴を脱ぐように説明された。
 靴を脱いで奇麗な板間に入った陽は、こぢんまりとした部屋に置かれたテーブルの朝食
と、そして一生の姿を見て言葉を失った。

「おお、来たか、ふたりとも」

 そう穏やかに語りかけた一生は明るい色のエプロンをかけ、腕捲りをして、朝食を並べ
ていた。
 室内は明るく、ガラスも張られており、外の緑も鮮やかだ。
 だが……

(防弾&防音ガラス……か)

 陽は目敏くそれを見つけて眉間に皺を寄せる。

「まあ、私も色々と考える所もあるのだよ、陽。さあ、座りなさい。家族水いらずで朝食
 といこうじゃないか」
「むう」

 いろとりどりの野菜と、ベーコンエッグにトースト。温かいコーヒー。
 旨そう……なんというか調子が狂う。いや、これも一生の策略の内か?
 などと考えながら、無遠慮に椅子に腰かけると、無造作にトーストを掴んで噛りついた。
 変な薬など入っていないだろう事は分かっていた。
 そうするならば、陽が気を失っている時にできたからだ。
 ……まあ、寝ている時にこっそりやられている可能性も考えたが、どうもそのような感
じでもないようだ。
 ふて腐れながら椅子に腰掛け、陽は目の前に並べられたトーストを鷲掴みにしてかじり
つく。
 それをじっと見ていた奈々美が、同じようにどすん、と椅子に腰かけて……

 がしっ、とトーストをつかんで噛りついて、そして喉につまらせる。

「……なにやってんだ、お前は」
「……うぐ……けほっ」
「陽、あまり妙な事を教えないでくれよ。どうやら、お前のやる事を真似しているようだ
 からな。特に、食べる事に関してはな。」

 苦笑いしてそういう一生の言葉に、渋い顔で従う陽。

「……こら、奈々美、お行儀が悪い」
「……だって陽もやってた」
「……すまん俺が悪かった」

 一体ナニをしてるんだろう、などと考えながら、それでも落ち着いた朝食は続く。
 奈々美は、純粋に『食べる』行為が楽しいらしく、ちらちらと陽の食べ方を見ながら、
その通りに真似して食べている。……そして喉につまらせる。
 一見すると、夫子家庭の温かな朝食風景、といった感じだが、そのうち一人は、天水村
の失踪事件の重要人物、もう一人は、侵入したあげくに捕えられて身動きの取れない人質、
とは、誰も思わないだろう。

「自分で料理をするのが私は好きでね。よく作っていたんだよ。……まあ、奈々美はあま
 り食べるという事に執着がなかったんだが、食べる事の重要性に気がついてくれてよか
 ったよ」
「ああ、そうですか」
「まあそう邪険にするな。これから、お互いに助けあって生きていく間柄になるんだ。今
 から親しくなる努力をしておいても、悪い事はあるまい?」
「誰と誰が親しくなんだよ」
「私とお前が、だ」
「なんで?」
「親子だからさ」
「似てねえな」
「お前は母親似だったからな」
「咲耶さんも似てねえぞ」
「どうも向こうとの混血では、向こうの血の方が、色濃く出るようでね」
「何言ってやがる」
「……いや独り言さ」
「咲耶さんが、俺の姉キねえ」
「よかったじゃないか、美人のお姉さんがいたんだからな」
(誠といい関係になったら、俺は誠の義理の弟になるのか……う〜ん……)
「どうした?陽」
「独り言さ」
「ほう?」
「父親が優しけりゃ、もっとよかったってな」
「はっはっは、これは手厳しい」
「親しくなれそうにないな。息子が生意気だからな」
「なあに、これからさ」

 奈々美は、この間、陽と一生を交互に見ながら、もくもくとトーストを噛り続けている。
だが、穏やかな朝食も、いつかは終わりの時がくる。
 奈々美に食器を運ばせて、外に出している間に、一生が話を切り出してきた。

「さて……、陽、今お前が置かれている状況というのは、把握できているな?」
「ああ、嫌ってほどにな」
「お前の自由は、私が握っている。いや、お前だけではなく、奈々美の自由もな」
「……」
「お前が私に従えば、事が済んだ後、自由にしてやろう。お前も奈々美もだ」
「何だって?」
「私に必要なのは、事を成し遂げるだけの十分な『時』だ。それが稼ぐ事ができるのであ
 れば、それ以外のものは、何も必要ない」
「……家族もか」
「家族か。そうだな……。今の私に、その家族を守れるだけの価値がある男であればよか
 ったのだがな」

 そういう一生の表情が、ふと、一瞬曇ったような気がした。

「まあ、それはいい。私には、家族をなくしても、彼女をまだ失った訳ではないからな。
 いや、それ以前に、もう私は社会的には死んだ事になってしまっているか」
「……?」
「いや、これはお前には関係のない事だったな。……陽、お前が、奈々美と共に自由に暮
 らせる唯一の方法は、私に従う事だ。全てを封じられた今のお前には、それ以外に選択
 肢はない……」
「奈々美を人質にしようってのか?自分の娘を」
「彼女は私にとっては武器であり道具でもある。私が『作った』のだ」
「なんてヤツだ」
「……それでも、お前にとっては、もう無視する事はできない『人間』だろう? お前は、
 目の前に困っている人間を目のあたりにして、無視できるほどドライでも弱い訳でもな
 いはずだ」

 陽の目つきが鋭くなる。陽に言わせれば、『非常にヤバい状況』に、話が流れているよ
うな感覚がした。



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