『20』


 再び舞台は水波のいる社。

「ふにゃ?」

 水波は、きょとんとした表情で、目の前に現れた二体の鬼を見つめた。
 彼等は、前鬼、後鬼と名乗って、彼女の前に姿を現したのだ。

「葛乃葉様……このような小さな少女を、我々が相手をしなければならないのですか?」

 後鬼と呼ばれた、初老の男が、美姫に対して語りかけた。

「うむ。少々鍛え直してやってくれ。ただし、手を抜いてはいかんぞ。徹底的に叩き
 直してやってくれ」
「……死ぬかもしれませんぞ、葛乃葉様」

 前鬼と呼ばれた、筋肉質の鬼が、美姫に対して不安げに語りかけた。

「ここで死んでしまうようであれば、これからの戦いに連れていく訳にはいかん。向
 こうで待っている戦いは、ここでの生温い特訓程度ではないのだからな」
「み……みきさん……?」

 水波は、彼等の会話を聞きながら、やっと自分がとんでもない状況に置かれている
事を認識し始めたらしい。
 
「殺す気でって……」

 水波は顔に大量の冷や汗をかきながら、美姫に問いただす。

「無論だ。この者達は、私の式神ではあるが、強烈な力を持っている。手加減をしな
 い……それは、殺す事と同じと言う事だ」
「それって、特訓にならないじゃない!」

 ぱたぱたと着物のすそを振りながら、水波が抗議の声をあげる。

「お前は、柊 誠を助けたいのだろう? ならば、ここにいる者達くらい退けないで
 どうする。さあ、戦って、この者達を退けてみせよ。そうすれば、この先の戦いに
 お前を連れて行ってやろう」
「うっ……」

 水波は美姫の言葉に、口答えできなくなる。
 美姫は右手をすっと上に挙げた。
 そしてそれを素早く振り下ろすと、二人の鬼……前鬼と後鬼が、土煙りをあげて猛
スピードで水波に迫って来た。

「わ、わ、わ!」

 水波は袴の裾に付いていた桜の花びらを、ぱっと自分の回りに散らすと、ぶつぶつ
と何やら唱え始めた。
 前鬼が前面に立ち、後鬼が後ろに控えながら突進し、前鬼の拳が、うなりながら水
波に突き出される。

「おりゃーーーー!!」

 水波はその拳に向かって両手を突き出す。
 すると、見えない壁が出来上がり、前鬼の拳を受け止めた。
 以前、暴漢達をなぎ倒した、あの壁である。
 電気のスパークのようなものが中りに起こり、水波は必死で拳を受け止めている。
 前鬼はというと、涼しい顔でそれを見ている。
 が、ふとため息をつくと、呟いた。

「それでは、誰も助けられないぞ小娘」

 そう言うと、前鬼は声を張り上げて拳を壁に押し付ける。
 すると、壁はぎりぎりと悲鳴をあげ、ヒビが入りはじめる。
 水波の背中にヒヤリとした何かが通り過ぎたと思った瞬間、拳が水波の腹に吸い
込まれた。

「あぐっ」

 一言そう言って、水波の小さな体が吹っ飛ぶ。
 それを見た卜部が、眉間に皺を寄せて美姫を見る。

「まだ早いのではないかね……わざわざ、あの娘をこれからの戦いに連れて行く
 事もあるまい……説得してここに居てもらうのもよかろう」
「これは、卜部殿ともあろう方が、そのような事を仰るか」
「あの娘は、どう考えても戦力にはならん。元々、四年前の富士山麓決戦でもろ
 くな戦果をあげてはいないのだからな」

 美姫は、倒れてピクリとも動かない水波を見つめながら言う。

「あの娘には……必ず行ってもらわねばならんのだ。木乃花 咲耶が天水村に向
 かう以上、《片方が欠ける》のはまずい」
「鷲王の言った事を本当に信じているのか?」
「あの娘が《片割れ》であるか否か……そして泰山府君が果たしてあの娘の元に
 体現するのかどうか……これからはっきりする」

 美姫がそう言って再び水波を見た時、その体がピクリと動いた。

「う……げほっ、ごほっ!」

 水波はふらふらと上体を揺らせながら咳き込んでいる。
 足がまだふらついている。
 水波はそれでも、何とか立ち上がった。

「ま……まさか……この儂の拳を受けて……無傷だというのか!」

 前鬼は、彼女が想像以上に元気である事に驚愕する。

「おそらくは……拳が入る前に、瞬時に後ろに飛んだのじゃろう……。なかなか
 に、油断のならぬ娘ですな」

 どこかの執事のようなスーツに身を固めた、どこからどう見ても好々爺にしか
見えない後鬼が、そう呟いてつかつかと水波に近付く。
 
「さて、お嬢さん。私の護符は、なかなかに強力ですよ。しっかりと対処しない
 と、全身黒焦げですので、頑張りましょう」

 そう言うと、後鬼は、すっと符を取り出し、水波に向かって投げ付けた。
 水波の背中に、冷気が舞い降りる。

「にゃにゃにゃー!」

 水波はまるで猫のようにジャンプして躱すと、四つん這いになったままで、さ
ささー、と逃走してしまった。

「……な……なんだあの娘は! 猫か!」

 忌々し気にそう呟くと、前鬼は水波の逃げた方に向かって駆け出した。

「どこへ逃げた小娘!」

 あちこちで木々が倒れる音がする。
 力任せに木々をヘシ折っているようだった。

「まったく、前鬼の奴めは、無理をする……」

 そう言って後鬼が呪符を取り出す。

「護符が自らを守るものであるなら、呪符は攻撃の主体となるもの……水波と言
 ったか……お主がどれほどの使い手か、私が見てあげましょう」

 そう言うと、後鬼がほい、と声をあげて呪符を投げると、符はまるで意志を持
ったかのように飛行を始めた。
 




 水波はその時、木々の影に隠れていた。
 鼓動が激しくなっていく。
 前鬼の強烈なボディーブローは、確実に水波の腹を捕らえていた。
 しかし、彼女の一瞬の判断が生死を分けた。
 水波は後ろに飛ぶと同時に、花びらで四方八方に分散させていた護符の力を、
前鬼の拳のくり出されるその一点に集中させたのだ。
 おかげで水波のお腹は壊される事なく無事であったという訳だ。
 しかし、先程の防御で花びらはぐちゃぐちゃになってしまい、もう使い物にな
らない。
 これからは、自分の機転と力によってのみ、この危機を打破していかなければ
ならないのだ。
 掌から、潰れた花びらが、はらはらと舞い落ちる。
 水波の心臓は、緊張と興奮でどんどん激しくなる。

(おちつけ、おちつけ……)

 水波は、ふうふう、と深呼吸をしながら、何とか息を整える。
 そして、よし、と立ち上がろうとしたその時、何者かの気配を感じて、ぞくり
と悪寒が背筋に走る。
 前鬼か、と振り向いた所にあったのは、ふわふわと浮かぶ二つの呪符。
 この時水波は、直感でしまった、と感じた。

(後鬼の呪符に見つかった!)

 水波は慌てて走り出す。
 しかし、その護符は、まるで意志を持ったかのように水波の辺りを飛び交い、
彼女の足を取ろうともする。
 水波は巧みに呪符を避け、森の中へと入っていく。

「……ふむ……そこか……」

 落ちついた表情でそう言うと、後鬼はゆっくりと歩き始めた。

「逃がしはせんよ」

 そして、とん、と軽くステップを踏んだかと思うと、老人とは思えないほど
の跳躍力で、木々の枝を次々と飛んで行った。

「……さて、戻ってくると思うかね、葛乃葉殿?」

 卜部が、美姫に静かに訪ねる。

「戻って来てもらわねば困る。我々は、一生と大嶽丸に負ける訳にはいかんのだ。
 なんとしても勝たねば、私がここに居る意味もなくなる……あの娘は、私にと
 っても、必要不可欠な存在なのだ」
「そこまで買い被るのも悪い事ではないのかもしれないが……前鬼と後鬼……お
 そらく、あの娘に対して一切の手加減はしないだろうな」
「担いで連れてこられたなら、もう諦めるしか無いな……咲耶のみでどこまでで
 きるかは分からんが、その時はそれでいくしかあるまい」

 卜部は、美姫から視線を森に戻すと、静かに言う。

「自分の足でしっかり歩いて帰ってこい、水波ちゃん」





「にゃんにゃんにゃんにゃん!」

 水波は子犬か子猫のように素早く逃げながら、呪符を避け続ける。
 しかし、呪符には疲れがなくとも、水波には疲れがある。
 徐々に間合いを詰められ、とうとう呪符が水波の着物の裾に触れた。
 その瞬間。

 ずどん!!

「きゃー!」

 爆音が轟き、水波の体が宙を舞う。

「ふむ、そこか……やれやれ、ずいぶんと走らせてくれましたな」

 後鬼がゆっくりと近付いてくる。

「小娘、やっと追い付いたぞ……」

 前鬼も、ゆっくりと水波に近付いて来た。

 水波は、呪符の爆風と、それによって木々に叩き付けられたダメージで、
意識は朦朧とし、気を失いかけていた。

「ここで気を失ったら、食われるぞ」

 前鬼の凄みのある脅しに、なんとか意識を保ち、水波はふらふらち立ち上
がる。
 その水波の目の前で、前鬼が拳を振り下ろす。
 その拳は水波の鼻をかすめて地面に吸い込まれる。
 その直後地面が揺れ、舞い上がった破片が水波を何度も強打する。
 水波は悲鳴をあげる間もなく吹っ飛び、そこに後鬼の投げ付けた呪符が猛
スピードで近付き、水波に付着、爆発した。
 水波の軽い体はあっという間に何メートルも吹き飛び、近くの枝に叩き付
けられる。
 叩き付けられた木からずるずると地面に滑り落ちた水波は、半分目を開け
たまま、気を失ってしまった。

「……ここまでか……」
「ふむ……大した事はありませんでしたな。葛乃葉様は、この娘のどこに目
 を付けられたのか……」

 そんな前鬼と後鬼の言葉を、水波は朦朧とする意識の中で聞いていた。




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