『32』


 八面鬼は両目を見開き、玉のような冷や汗を流しながら、誠を凝視してい
た。
 こんな事があるはずがない。自分の剣は相手の剣そのものだ。相手と同等
の力と剣技を持ちながら、それが相手に通用しないなどという事はありえな
い。
 それが八面鬼の戦術であった。
 相手の技を真似るという事は、相手になり切るという事。
 自分は鬼であり、相手は人間。身体能力の差は歴然で、自分と同じ剣技を
持った者が、自分よりもさらに豊富な体力で迫ってくる。
 本来であればあっという間に疲弊し、疲労から生まれた隙を突かれて相手
は絶命する……はずであった。
 しかし、自分と相対した誠は静かに左手で刀を持ち、その左手を下げた形
で右足を前に一歩踏み込み、八面鬼を見据えている。
 自分は深い刀傷を負い、息も絶え絶えだ。
 八面鬼は訳が分からなかった。
 相手と同じ剣を使っていながら、なぜ人間ごときに遅れを取るのか。
 だが、八面鬼には分かっていなかった事が一つだけあった。
 それは、古流剣術を使う者は、その弱点をも全て知り尽くしている事、そ
して、人はその時々において、成長していく生き物であるという事を。

「何故だ……俺は貴様の剣を全て吸収したはずだ」
「なら、その技を使ってこい。俺の技であれば、その返し方ならいくらでも
 思い付く」

 八面鬼は絶句した。
 誠が自分の技の弱点まで知り尽し、適格に返してくるのであれば、それを
防ぐ手立ては八面鬼にはない。
 自分の技を返された時の技の躱し方など、八面鬼には真似る事等できない
からだ。
 一度返し技を使った剣技を誠が使うとは思えない。
 また、誠が使う技の返し方など、八面鬼に分かるはずもない。
 そもそも、誠はそんな技をくり出してくる訳がない。
 誠は、相手にばれていない技しか使ってこない。
 そして、その技を真似た時には強烈な返し技が八面鬼を切り刻む。
 それが幾度と無く続き、八面鬼は戦闘能力を根こそぎ奪われていった。

「圧倒的だな。……まあ、俺が何もしなくても、彼ならあんな大道芸人には
 負けないと思っていたけど」
「……しかしまあ、相手が自分の技を真似てくるんだ。普通であれば慌てる
 はずなのに、落ち着いているな。感心だ」
 
 武と美姫が誠を見つめて感心している。
 その彼等の周りには、鬼が死骸となり、そして砂となって消えていた。
 
「おーい、こっちも片付いたよ」

 水波が前鬼に肩車してもらって、武と美姫の傍へと近付いてくる。

「《力》を使わずに済まされましたか、主人よ」

 後鬼が美姫に語りかける。

「うむ。まあ、この程度の雑魚相手に《あれに戻る》必要もないからな。
 武なみに攻撃力のある者が相手であれば別だがな」
「俺はあんな戦いは二度とごめんだな」

 苦笑しながら武は答える。
 水波には意味がさっぱり分からなかったが、彼等二人が実力の半分の力
も出していない事は良く理解できた。
 咲耶も自分の周りの鬼を殆ど始末していた。
 彼女の操る桜の幹は幾重にも分かれて鬼に絡み付き締め上げる。鬼が自
分に向かってくるならその幹を槍のように尖らせて突き刺し、不意打ちの
ごとく地面から幹を突き出して串刺しにする。
 咲耶の周りに縦横無尽にはり巡らされた桜の幹に、鬼は成す術もなく倒
されていった。
 咲耶は自分の操る幹が、前よりも滑らかに、自分の意志に従っているよ
うな気分がしていた。
 自分の意志の強さと、自分の操るものを理解することで、まるで手足の
ように幹を操れるようになる。
 自分の扱うものを良く理解し、戦いにおいて心を強く保つ事。それが、
文の教えてくれた事だったと、咲耶ははっきりと理解した。
 彼等が、その視線を誠のいた方角に向けると、そこにはもうどう猛な鬼
の姿は全くなかった。
 息も絶え絶えな八面鬼と、無傷で佇む誠がいるだけだった。
 
「勝負あったな。もう八面鬼に戦意はない」

 そう言う美姫に、武は顎に指をあてて言う。

「どうかな。追い詰められた草食獣は意外な力を発揮するというからな」
「……八面鬼は草食獣か?」

 美姫は眼を見開いて武に問いかける。

「虎が追い詰めるものは獲物しかないだろう?」
「……虎か。確かにな」

 美姫は納得して頷いたが、水波はこれも意味が分からなかった。

「はえ? 虎ってなに?」

 非常に真面目に水波はそう問いかけたが、武と美姫は苦笑して水波を
見て言った。

「そうか、水波ちゃんには、あれが虎には見えないか」
「私達と違い、お前は素直だからな」
「何が? あそこにいるの、まことでしょ?」

 至極まっとうな意見であったが、二人は苦笑するだけだった。
 そこに咲耶が帰ってくる。

「もう勝負は着きますわね」

 そう語りかけた視線の先で、八面鬼が大きく構えと取って誠を睨み付
けた。

「このままでは終わらんぞ! ……絶対にこのままでは……」

 そんな八面鬼に向かって、誠は静かに語りかけた。

「今のお前に何ができる? 人の真似事しかできないお前に、俺を超え
 る事などできない。お前にできる事は、相手を疲弊させて、その隙を
 突く事だけだ。 ……だが俺は、お前に隙を作るような事はしない」
「ぬかせ! お前の最強の技が永(くおん)である事は分かっている!」

 武は目を見開いた。

「驚いたな。いつの間にそれを知ったんだ?」
「全くだ、油断ならんな、鬼の軍勢も」

 武と美姫はそう言うものの、全く驚いている風ではない。

「ねえ、くおんってなに?」

 水波が当然のごとく問いかけてくる。

「夢想神伝流の奥義……と呼ばれているものさ」

 武はそう言ったものの、端切れが悪い。

「なんだ、最終技じゃないのか?」

 美姫が鋭く突っ込んでくる。

「確かに奥義には違いない。だが、奥義は一つとは限らないだろう?」
「どういう事だ?」

 美姫はいぶかし気に武を見つめる。

「……まあ、見ていればわかるさ。誠君がちゃんと自分にケリをつけて
 帰ってきているのであれば、必ず勝てる。……たとえ、それが永が相
 手であっても」

 それを聞き、美姫は微笑して視線を誠に移した。

「……お前がそう言うのであれば、間違いあるまい」

 そんな二人の傍らで、咲耶は一人不安な面持ちで誠を見つめていた。
 『くおん』という技が、誠の使う夢想神伝流の中でも最強の部類に
入る技である事は理解できる。
 その技を鬼である八面鬼が人間である誠相手に使ってくるのだ。
 不安でないはずがなかった。
 そんな咲耶の気持ちを見すかしたかのように、武が静かに語りかける。

「何もしてはだめだよ、咲耶さん」

 はっとして、昨夜が武に視線を向ける。

「この勝負で君が桜を使って手助けをしたとしても、誠君は、決して君
 に感謝する事はないだろう。彼は、自分自身であの八面鬼に打ち勝つ
 つもりなのだから」
「……なぜ……そこまでして誠さまは……」

 問いかける咲耶に、武は微笑して言った。

「八面鬼が真似ている誠の技は……昔の……弱さに付け込まれて我を忘
 れた誠そのものだからだよ」

 再びはっとして、咲耶は誠を見る。
 そうなのだ。誠が何故あの鬼と一騎討ちを望んだか。
 それは、あの鬼が現れたのが、誠が鷲王と戦って負けた時だから。そ
してそんな誠の技を真似、誠を痛め付けたから。
 誠はここから始めようとしているのだ。
 ……あの鬼を倒す事、それは、誠にとって、昔の自分を倒して、新た
に始める事に他ならないのだ。

「誠さま……」

 咲耶は唇を噛んで誠を見る事しかできなかった。
 
 そんな会話が交わされている間も、二人の間合いは徐々に詰まってい
く。
 八面鬼は、「永」について殆ど知識を得ていない。
 しかしながら、誠が父、精一郎と手合わせをしているその場面を見て
いたのだ。
 「永」が、その文字を描く事になぞらえて作られた技であること、そ
して、その「永」の書き順は、決して通常の漢字と同じでなくても良い
という事。
 一瞬九択の、まさに一撃必殺の技。
 その名からは連想できない、高速の剣。
 八面鬼は、それがどんなものであっても、その目にしたものであれば
全て真似る事ができる。
 相手が何年もかかって必死になって会得したものを、自分は一瞬で真
似る事ができる。
 それが八面鬼の戦い方であり、絶対の自信でもあった。
 今回もまた、柊 誠という剣士が必死になって会得したであろう技を
一瞬で真似ようとしている。
 八面鬼にとって、それは雑作もない事なのだ。
 しかし、八面鬼の前に佇むこの男は、まるで動じる気配もない。
 絶体絶命に追い詰められているというのに、まさに余裕の表情。
 八面鬼は訳が分からなかった。
 追い詰められて腹をくくったか。
 ……とも思ったが、実は追い詰められているのは自分である。
 ここで相手が自暴自棄になるとは思えなかった。
 とすれば、考えられる事は、ただひとつ。

「『永』を、撃ち破る事ができる、という自信があるんだよ」

 武の言葉に、美姫は驚く。
 誠はその技を、ほんの数時間前に見せられただけだという。
 しかも、自分の父親に見せられたのみで、自分で本当に扱えるかどう
かすら分からない。
 なのに、絶対の自信をもって八面鬼と相対しているらしいのだ。

「今の彼が『永』を撃ち破るということは……」
「ああ、八面鬼と同じ特性を持つという事になる」
「同じ特性というと……」
「彼の場合は、真似るんじゃない。技を完全に知るという所は似ている
 が、逆だな。彼に一度見せた技は、二度と通用しない、という事だ」

 美姫は訝し気に誠を見る。

「そんな事ができるようには見えなかったがな……」

 そういう美姫に、武は苦笑して言う。

「それはそうさ。彼は、戦いで挑発されれば我を忘れる事があった。
 そのような状態で、冷静に相手を見極める事なんてできなかっただ
 ろうね」
「今の彼には、それができると?」
「誠君が、しっかりと自分を見つめ直して今あの場所に立っているなら
 ……ね」
「しかし、ここでもし彼が八面鬼に負けるような事にでもなったら?」

 そういう美姫に、武は今度は真剣な表情で呟いた。

「……ここで負けるようなら……これからの戦いで勝ち残っていく事
 は一切できない……」
「大丈夫だよ」

 前鬼の肩から降りてきた水波が、武の言葉に応えるように呟く。

「大丈夫って気がする。なんで、って言われると、わかんないけど」

 そんな水波に、咲耶も水波の肩を背中から抱きながら同意する。

「ええ、そうですわね。私も、同じ気持ち」

 武はそんな彼女達を見ながら呟く。

「……そうだね。俺も信じる事にするよ。ここで勝ってもらわないと
 戦力的にも困る事になるしね」
「負けられると、少し寂しくなるしな」

 美姫の言葉に微笑して、4人と二人の鬼は勝負の行く末を見守った。

「最期に言っておきたい事があったら聞いてやるぞ」

 そういう八面鬼に誠は淡々と応える。

「ここで負けるお前が誰に何を伝えられるというんだ?」
「……減らず口を…‥」
「どうした? 震えているぞ」
「黙れ!」

 八面鬼は構える。
 それはまさしく『永』の構え。
 それに対して、誠は一度納刀し、そして居合いの構えをとる。
 相手の間合いに少しずつ近付く。
 そして、お互いの間合いに、お互いの爪先が触れた瞬間……。

 互いの足下が踏み込んだ軸足の衝撃で爆発し、そしてその姿が消え
た。


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