『5』


「おお、そうだ。二人ともちょっと待て。ほれ」

 ぽいっ、と水波と咲耶に白い布を渡す美姫。

「……美姫さん、なにこれ?」

 水波が小首を傾げながら、その布を広げてみる。
 すると、それは白い着物だった。

「私と来るにも、文殿と行くにも、まずはそれを着て、体を清めておけ」
「ほーい」

 どたどたと駆け出していく水波。

「ちょっと待て! 場所知らんだろうがお前は!」

 美姫は水波の首を掴んで、猫のように持ち上げる。

「ふにゃ?」
「ふにゃ、ではない。」
「にゅふ」
「にゅふ、でもない」

 美姫は片手に水波を持ったまま、先ほど説明した神社のある小山を指
さしてみせた。

「先ほど、あの山に神社があるというのは言ったな。その神社のすぐ傍
 に、小さな滝がある。お前達はその滝坪で、体を清めてもらう」
「う、それがすでに、せいしんしゅぎょーってやつ」
「あら、そうなんですの?」
「馬鹿もの。たかが水浴びが精神修行になってたまるか」

 美姫が、掴んでいた水波の首ねっこを離すと、ぽてっ、と水波が落ちる。

「さ、行くぞ。我々には、寧日はないと思えよ。着替えよう、こっちだ」
「なんで美姫さんも来るの?」
「私も体を清めるからに決まっておろう」
「わーい、一緒にみずあび〜」
「……いつでもどこでも、幸せそうだな、お前は」
「おお、水浴びか、なんなら、私もお供をし……」
「貴様は来るな!」

 ごすっ

 のこのこ付いてくる卜部に、美姫の強烈な鉄拳が炸裂する。
 見事に吹っ飛ぶ卜部。

「一歩でも近づいたらコロス」
「……はい、私が悪うございました」

 へこへこと土下座する卜部に鼻を鳴らして、美姫はその場を後にする。
 慌ててそれに続く、水波と咲耶。
 たあいもない事を話しながら、近くの空き部屋へと消える三人を見送
って、精一郎は誠と武に声をかけた。

「では、我々も行きましょうか。先に道場で待ってますよ。二人とも、
 着替えてきなさい」
「では、私は三人の服を片付けて、咲耶さんを待つとしましょうか」

 誠の両親も、いそいそと動き出す。
 それを見て、誠と武もその場を後にする。
 誠と武が道着に着替えて道場へと上がったのは、それから10分後だった。
 道場は、誠が修行に励んだ幼少時代から変わらず、記憶と同じ姿でそこ
にあった。
 彼は、鬼切役ができる以前、自衛隊の対鬼特殊部隊だった頃も含めると、
6年もここに帰ってきていなかった。
 誠は、昔を懐かしむように、道場の空気を深く吸い込む。
 そして、修行時代の自分を思い出し、そして思う。

 俺はあの頃より、少しは成長したのだろうか。
 
 15歳で家を離れ、17歳まで土方歳三の元で戦い方を教わり、そし
て富士山麓決戦では誠は多くのものを失い、そして多くの者とともに苦
しんだ。
 鬼と何度も戦いながら恐怖と後悔を幾度となく克服してきた、と誠は
思っている。
 だが、それは、一人の武人として、本当に成長したのだと言えるのだ
ろうか。
 それに誠自身、ここ数日の戦いを思いだし、ここを出る以前よりも、
自分の剣には邪気が増したようにも感じていた。
 誠は首を振る。
 考えても、答えはすぐに出るものではない、と。
 彼はそう思い直すと、武術の礼儀にのっとり、道場と神棚に向かって
礼をし、師匠である、父、精一郎の前に武と並んで正座した。
 師、柊 精一郎が、座した誠と武を前にして語りはじめる。

「私が学んでいるこの直心陰流は、杉本備前守政元を流祖とし、その
 剣の流れは、かの剣聖、上泉伊勢守秀綱の新陰流にも通じている。
 しかし、そのような様々な剣豪を産み、そして多岐にわたる試行錯誤
 をくり返した剣術も、空しく近代に至って滅びかけた。
 私はその滅びかけた剣術を再興すべく直心陰流を守り、そして、居合い
 を組み入れて、夢想神伝流を再び蘇らせた。さて、誠」
「はい」
「直心陰流において、中段の構えを何という?」
「西江水(しゃこすい)です」
「……そう。これは、インドの西江、つまりインダス川の事を指している。
 剣を修める中で、悠久の大河のごとき人格と度量を修行者自信が身につ
 けなければならないという比喩が含まれているものだ」
 
 ここで一息つき、精一郎は再び語りはじめる。
 
「今の夢想神伝流は、剣聖・上泉伊勢守の新陰流、私の直心陰流、そして
 居合いの祖、林崎甚助重信の居合いを含んだものであり、その剣は、
 型に捕われぬ剣筋、剣を抜き去る時には電光石火、そして剣を抜きて
 からは、西江のような雄大で力強い剣を振るわねばならない。……誠、
 今のお前に、その剣筋があるか……真に奥義を得られるに値するか、
 私が試してあげましょう」

 そこまで言うと、精一郎は立ち上がり、誠を促した。
 誠も正座から立ち上がると、刀の部分が竹でできた模造刀を手に、師
精一郎と向き合った。

「誠、遠慮はいりません。鬼切役として、器使いとして覚醒したものと
 して、全力で私に向かってきなさい」
「……え、しかし……」
「誠、もしや自惚れているのですか?」
「……わかりました」

 誠は、この6年、遊んでいる訳ではなかった。
 師の言葉は挑発である事は分かっていたが、自惚れとまで言われては、
誠としても聞き流す事はできない。
 誠は、師と向き合い、礼を交わすと、静かに腰の刀に手をかけ、居合
いの体制に入る。
 精一郎は、静かに剣を抜くと、中段に構えた。
 威嚇するでもなく、大きな音をたてるでもなく、静かに、そして大き
く構える精一郎の体には、寸分の隙すらも誠は感じる事ができなかった。
 誠は、その精一郎の構えの隙のなさに少し焦りを感じた。
 居合いはすれ違ったら勝負はついていると言われるもので、一瞬の隙
と、一瞬の抜き打ちが全てである。
 だが、師の中段には、どこに打ち込んでもいなされるような、力強い
何かが剣先から出ているようだった。

 隙がない……

 誠は、じりじりと間合いをずらしながら、精一郎の回りを動きはじめる。
 頬を汗が流れる。
 そして、精一郎が少し剣先を動かしたその時。

 今だ!

 まさに、一瞬と思えるその瞬間に誠は抜刀し、そして、抜刀した刀が
見事に宙を舞い道場に転げ落ちた。

「……え……?」

 誠が信じられないといった表情で、落ちた剣を見る。
 抜刀した剣筋よりも早く、精一郎の険が誠の腕をとらえていたのだ。

「誠、拾いなさい」

 師の言葉に我に返り、剣を握りしめて構え直す。
 その間にも、師の構えには微塵も隙がない。
 誠は、何度も居合いをくり返し、または構えて踏み込むもその度に剣
を弾かれ、不様に床にそれを落とした。
 そんな二人の試合を静かに武は見つめている。
 何度目かの敗北を体験した後、誠はやっと自らの過ちに気がついた。

「……まさか……動かされている……!」

 精一郎は、隙のない構えにわざと隙をつくる形で、自分の優位な方向に
相手を移動させ、自分の好きな時に相手に攻撃をしかけさせていたのだ。
 誠は自分から攻撃をしかけたのだと思っていたが、実はその全ては、師
に圧倒された上での悪あがきにすぎず、そして出された剣筋は、全て師が
出させてたものだったのだ。

「器使いといえど、所詮は人。人と人との戦いであれば、心を制したもの
 が、勝負を制するのです。誠、お前の剣は、戦いの始めから、既に心が
 負けている。まるで心のこもらぬ剣など、私は恐くありませんよ」

 その師の言葉に、誠ははっとした。

 君の剣に、心はあるか。

 それは、上司であり兄弟子の、武の言葉そのものだったからだ。

 誠は改めて思い知った気がした。
 何故、渡辺 綱に、鷲王に、蒼真 武に、そして父に勝てないのか。
 剣を抜いたら、相手を倒すことだけしか考えない野蛮な剣。
 対立する、しないに関わらず、誠が負けた者達は、どんな時でも自分
の剣というものを見失ったりしなかった。
 誠は、ただ勝つために我を失い、剣を振り回していただけだというの
に……。

 剣を下ろしてうなだれる誠に、師、精一郎は言う。

「……今のお前では、決して鷲尾君には勝てないでしょう。……岩戸へ
 と行き、中に籠りなさい。」
「岩戸に……」
「そこで、自分自身と向き合いなさい。今のお前は、私でも気がついて
 いる、お前の内に潜むものにも、気がついていない」

 誠は、鷲王との戦いの時に現れた龍について思いを巡らせる。
 自分の中にある『何か』。それと向き合った時、自分はどれだけ変わ
れるのだろうか。
 誠はそう思いながら、再び師を見る。

「誠、最後に、お前にこれを見せておきます。これは、お前が奥義を授
 かるために、絶対にできなければならない、剣を修める者への試練で
 す。」

 そう言うと、精一郎はひとり、道場中央へと歩み寄り、礼をして構え
をつくる。

「永字八法、というのが書道にはありますね。ですが、あれは書道だけ
 に限ったものではありません。剣においても、全ての動作が含まれた
 文字なのです。古より伝わる、「永」の字に斬り結ぶその様を、「永」
 の字から、今までの剣の歴史から、『クオン』と呼びます。」
「くおん……」
「そう、久遠……その歴史において作り上げられた技……見ておきなさい」

 精一郎はそう言うと、立ってからの抜刀の構えになる。
 そして、ふん、と気合を入れると、一瞬のうちに抜刀する。
 誠が瞬きをする暇もないその一瞬に、確かに師は、抜刀から始まって斬り
下ろしまで、確実に、一瞬にして「永」の字を刀で描いてみせた。
 
「これが、夢想神伝流の奥伝のひとつ……『永(くおん)』。一瞬にして刻
 まれるその文字の前には、敵は防御すらもままならないでしょう……です
 が、今のお前に、これができますか?」

 誠は、目を見開いたまま固まってしまった。
 今までの自分の剣技が児戯に思えるような、師の剣筋。
 それも、器使いでもない師が、自分をも上回るものをやってのけたのだ。
 
 ……これが、心の……差。

 誠はそう思うと、師を真直ぐに見て言った。

「俺、入ります、岩戸に。そして……過去の自分を見つめてきます」

 その言葉に、師であり、父である精一郎は、穏やかに微笑みながら頷いた。

 ……誠が道場で決意を決めている時、その道場を、外から見守る者がいた。

「……なるほどなあ、あれが、誠君の剣筋か……」

 そう呟いた卜部は、静かにそこを後にする。
 
「剣は、心のみにあらず、だが、心を持たぬ剣はただの暴力だ。
 言うは易く、行いは難し。行いは易く、悟ること難し。
 柊君、君の剣が、天理に基づいて、破邪顕正(はじゃけんせい)の道を
 辿れるか……楽しみにしているよ」
 
 卜部はそう呟くと、小山の頂上の神社へと、独り歩き去って行った。


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